役割変わりなし
相模総合補給廠の敷地は横浜スタジアム50個分以上とも言われている。JR横浜線に乗ると、車窓から「広大さ」を実感できるはず。沢田政司さんによると戦車闘争後、修理ラインは撤去されたが、さまざまな戦場用資材・物資を備蓄・保管するという施設の役割に変わりはない。1990年代の湾岸戦争や2000年代のアフガン戦争でもその機能を果たしている。
一方、「一部返還」により一角には一昨年、相模原市によるスポーツ・レクリエーションパークが新設された。その場所は50年前、ベトナム戦争で破壊された戦闘車両が並んでいた場所という。
最後の機会
歴史の一コマを目撃し、その当事者でもあった沢田さんはこの闘争を「伝えていきたい」という思いは強い。この春には関連冊子の刊行にも携わりその機運を高めている。「あの時のことをリアルタイムで知っている人は、だいぶ少なくなってしまった。先輩方も亡くなられている。自分の年齢(72)を考えると今回の展示が最後の機会」とし多くの人の来場を期待する。
「未来考えて」
◆現在発売中の号で沢田さんの寄稿を掲載している総合雑誌『アゴラ』発行責任者・山田広美さん「相模補給廠監視団は、戦車闘争後、世間の関心が薄れていく中、残る戦闘車両の行方を見とどけるために始まった徹夜監視活動を経て結成されたと聞きます。1975年に「監視団ニュース」1号を発行し、以来、休むことなく補給廠とキャンプ座間の動向を伝え続けてくれています。過去には監視団が、補給廠でPCB含有廃棄物を発見し、国際問題に発展したこともありました。普段は静かで人影さえも見かけない補給廠ですが、2001年9・11の時には、ここに補給廠があることの危険性に気づいたという市民もいました。補給廠がある限り、その危険性は未来へ続くのだと思います。写真展は、過去を知り未来を考えることができるのではないでしょうか」
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