区内でトロフィーやメダル、記念品を取り扱う会社の社長を務め、現在も地域の子どもたちらと白球を追う元プロ野球選手がいる。1970年代から80年代にかけて中日ドラゴンズやロッテオリオンズ(現マリーンズ)の内野手として活躍した田野倉利男さん(66)だ。
東京立川市で生まれ、都内の高校を卒業後、プロ入り。守備の要である遊撃手を本職とし、2年連続で二けたの本塁打をマークしたこともある打撃が売りの選手だった。引退後はロッテの打撃コーチを務めた後、父親が始めた記章の販売、製作に当たる会社を引き継ぐため、中央区千代田へ。
「20年以上前に暮らし始めた時は周囲に何もなく、夜は横浜線の音が聞こえたものですが、相模原も発展してきましたね」と田野倉さんは振り返り、「私は運が良かったと思っています。人の縁に恵まれてきました」と笑顔を見せる。
情熱尽きず
引退後も野球熱は衰えていないようだ。
経営する会社のスポーツ事業として、区内や町田市などで野球スクールを運営。およそ20年ぐらい前からは、地元千代田を拠点とする少年野球チームを設立するなど、子どもから大人までさまざまなレベルの野球人への指導に当たっている。「単純に野球が好き。チームで勝利をめざすところが魅力と考えています」と田野倉さん。
その指導法はチームワークを重視する。遊撃手が一塁手へと送球する際に悪送球となってしまった場合、田野倉さんはミスをした遊撃手ではなく、カバーできなかった一塁手に「取ろうよ」と声をかけるようにしているのだという。それは、「ミスをした選手を追い込むのではなく、助け合うことがチームを強くするということを知ってもらいたいから。もちろん、酷い暴投は例外だよ」と笑う。
加えて大切にしているのが礼儀。アメリカのベースボールとの違いはそこにあるとし、共に白球を追いながら、子どもたちに社会でも通用する礼儀を教えていく、ということを肝に銘じながら指導に当たってきたのだという。
3回改名
そんな一見、武骨な昭和の野球人に見える田野倉さん。でも、実は柔軟な人でもある。現役時代は、怪我がないよう縁起良くなればと、選手登録名を3回改名。晩年には、新しいものを取り入れることを嫌う傾向のあるベテラン選手でありながら、中日の監督も務めた大打者、落合博満氏から打撃のコツを盗み、打撃成績を上げるなど、現役時代から物事を柔軟にとらえ、自分の成長につなげてきた。
今、その真価を見せている。新型コロナ禍で多くのスポーツイベントが中止となる中、記章事業の仕事が激減。スポーツ事業も対面での指導がメインとなるため、苦戦が考えられたが、ただ頭を抱えるのではなく、新たな手段を模索する中で、昨夏以降、動画による指導を始めた。「PCやスマホでやり取りできるもの。だから全国の選手に指導ができるようになった。元々、動画などを扱うのに抵抗はなかったんだよ」と田野倉さんは笑顔を見せ、「私は才能のある選手ではなかった。だからこそ、工夫する必要があった。その考えが染みついてきたからこそ、ここまでやって来られたのだと考えています」と話す。そして、「いつか市内の工場を借り切ってそこに子どもたちの野球学校を開きたいんだよね」。まだまだ現役。「変化」へのアイデアは尽きないようだ。