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相模原市 市制施行70周年 農村から大都市に
相模原市は2024年11月20日、市制施行70周年を迎える。1954(昭和29)年に相模原町から相模原市が誕生し、2010(平成22)年には政令指定都市に移行。かつての農村は、軍需産業から日本の製造業を支える内陸工業都市へ、そして首都圏のベッドタウンへと都市化が進み、今では人口72万人を超える大都市へと発展を遂げた。その変遷を辿ってみた。
あたり一面に雑木林や畑、草原が広がっていた農村・相模原台地に転機が訪れたのは1937(昭和12)年のことだった。第一次世界大戦を経て日本が中国への進出を強めていた頃、東京にあった陸軍士官学校の一部が新磯村と座間村に移転してきた。東京から近く、土地が安くて平らで広かったことから移転先に選定されたとされる。
陸軍士官学校を皮切りに、37(昭和12)~43(昭和18)年の間に8つの軍事施設が建設され、県は軍事施設を中心としたまちづくりを始めた。広域に及ぶ区画整理事業を円滑に行うため、41(昭和16)年に上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の2町6村が合併して「相模原町」が誕生した。
太平洋戦争の敗戦後、軍事施設は米軍施設として接収された。相模原町は軍事都市から工業都市への移行が相模原の発展に繋がると考え、「相模原市」への移行と工場誘致を目指した。
54(昭和29)年6月の議会全員協議会で11月の市制施行を決定し、8月に市制施行の申請書を議決した。11月20日に「相模原市」が誕生した。
人々の反応は歓迎一色ではなく、税負担増への懸念や役所移転への反発など、様々な意見や反対運動を乗り越えての市制施行だった。
市は55(昭和30)年、工場誘致条例を施行した。第1号のカルピス食品工業株式会社をはじめ数々の工場を誘致した。58(昭和33)年には国の市街地開発区域の指定も受け、相模原市は内陸工業都市として発展した。
工場の進出に伴い人口は増加。東京・横浜のベッドタウンの様相を呈し、67(昭和42)~73(昭和48)年には1年で2万人以上の人口増加があった。
交通インフラの整備も進み、90(平成2)年に調布駅と橋本駅を結ぶ京王相模原線が全線開業。東京都心への通勤・通学や多摩ニュータウンへのアクセスを可能にした。
国が94(平成6)年に中核市制度を創設すると、相模原市は面積要件の緩和を各方面に働きかけ、2003(平成15)年に中核市への移行を実現した。06(平成18)、07(平成19)年に津久井地域と合併すると、豊かな自然環境を併せ持つ人口70万人超の大都市になった。
07(平成19)年頃、相模原市は人や企業から選ばれる都市を目指し、政令市への移行に動き始めた。09(平成21)年10月、総務大臣に政令市の指定について要望を提出すると、同月中に相模原市の政令市移行が閣議決定された。
翌10(平成22)年に戦後に誕生した市として初めての政令市となり、新たな相模原市がスタート。これまで県が行ってきた保健福祉や都市計画、教育などの分野の事務が市に移譲され、財源も拡大。市が主体的・迅速に市民のニーズに応えられる運営が始まった。
相模原市は東京都心から30~60km圏に位置するアクセス性の高い立地を生かし、首都圏南西部における周辺都市からの求心性を高める都市づくりを推進。15(平成27)年までに八王子―茅ヶ崎間に開通した圏央道には市内に2つのインターチェンジが誕生し、19(令和1)年にはリニア中央新幹線の新駅が橋本で着工した。
今後は橋本駅周辺のまちづくりや麻溝台・新磯野地区整備推進事業など、ますますの変化・発展が期待されている。
相模原市のマスコットキャラクターの「さがみん」は2014年、相模原市制施行60周年を契機に誕生した。清らかな水、市の花のあじさい、特産のゆずを盛り込んだ帽子をかぶっている。
相模原市の魅力を全国に広めるべく、この1年は70回もイベントに出演した。「いつもこどもたちがいっぱい集まってきてくれる」とさがみん。これからも相模原市のことを知ってもらえるよう精力的に活動する。
相模原市 市制施行70周年 農村から大都市に11月14日 |
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