名家のルーツを探る 「渋谷家の千年」 連載【2】 相模大野駅周辺商店会連合会会長・渋谷直樹
渋谷重家は氏神である八幡(現在の東京都渋谷区・金王八幡宮)に子を授かる様に祈願を続けたところ、金剛夜叉明王が妻の体内に宿る霊夢を見たという。そうして永治元年に生まれたのが渋谷金王丸常光である。
武勇と忠義の若人
金王丸は十七歳になると源(左馬頭)義朝に従って鎌倉に赴き、保元の乱にて初陣ながら大功を立てその名を轟かせた。ところが続く平治の乱(一一五六)で義朝は破れ、平家方に追われる。わずかとなった従者と鎌倉へ敗走する途中、立ち寄った尾張の長田の館で義朝は討たれる訳だが、その時の従者の一人が渋谷金王丸。彼の人生初の転機だったように思う。
片時も太刀を離さぬ若武者金王丸だったが、義朝が湯殿に入る時に湯上りの着物の用意がないことに気づくと館へこれを取りに行った。これは長田の策略であり、その隙に長田方の猛者が義朝の首をとってしまう。金王丸は異変に気づくも時既に遅く、主の首は長田が持ち去っていた。金王丸は激反し、猛者を相手に切り倒して、長田を追って京へ向かう。義朝の首を都への手土産として急ぐ長田を追った金王丸だが、策士・長田は彼の行動を予測して、裏山に一時避難していた。終に主の首を取り返せず、また敵を討てなかった金王丸は事の次第を常盤御前に報告した後に渋谷で剃髪したと伝わる。
金王桜の由来
義朝の子、頼朝の近くにも金王丸の名が登場する。
渋谷氏は鎌倉幕府開幕に寄与した平氏の中で最も中枢に近い忠臣だった。しかし壇ノ浦の後に頼朝は義経に謀反の疑いを掛ける。この討伐命を受けたのが義朝に仕え、頼朝や義経とも親しかった金王丸である。幕臣としての渋谷氏の進退を考えると断ることもできず、金王丸は文治元年(一一八五)に百騎を率いて義経の館に討ち入った。
元より”その気のない”金王丸は義経の館に入った際に抵抗することもなく捉えられる。心情を察した義経や源氏一門の懇願にもよらず頼朝から死を賜る。主への忠をたて渋谷氏一族の存続を思いながら勇将らしい終わりを遂げることになった。頼朝は後に金王丸を偲び、八幡宮に鎌倉の館から桜を移植させ、金王桜と銘した。
こうしたお家と忠義、友情の狭間で葛藤した武勇の士は長く江戸の世まで語り継がれ、浄瑠璃や能、歌舞伎の題材となり、広く庶民に親しまれた。金王桜は江戸三名桜に数えられ、代々実生より育て植え継がれて、現在も毎年綺麗な花を咲かせている。
―・―・―・―・―・―・ この9月に、渋谷警察署の裏にある金王八幡宮の鎮座920年祭が執り行われた。その席で渋谷区の館を守ってきた渋谷家の第36代目となる方と話す機会があった。「兎角(とにかく)、私が本家だ」と言う話が多いが、古弓をはじめ多くの武術を武士の家として引き継ぎつつも、高座の渋谷(大和市、綾瀬市近辺)をも敬う彼の姿勢に感心した。
大和市と綾瀬市に跨る土地に渋谷の庄があったと言われている。次回は高座渋谷の渋谷氏と町おこしについて学びます。 続く
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