幕末の時代に活躍した新選組の局長、近藤勇が相模原を訪れていたことが分かった。小島資料館(町田市)が保管する史料「両雄逸事」の中に、上溝の名主で近藤の支援者の一人であった佐藤為彦宅を訪れ、蘭方医・鷹取胖斉(たかとりばんさい)と好物の「とろめし(とろろ飯)」の大食い競争をして負けたというユニークなエピソードが残っている。
近藤勇は1834年に武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市)に生まれた。15歳の時、2人の兄と天然理心流に入門すると、その才を見込まれ4代目を継いだ。63年に将軍家茂の警護のため幕府が募った浪士組に参加し、門人らと共に京へと上り、「新選組」と名を改めた後、局長に就任。京都の治安維持にあたり、池田屋事件などで名を馳せると、農家の生まれながら幕臣にまで上り詰めた。
近藤勇が上溝に
小島資料館を運営する小島家は20代目の鹿之助が近藤勇と義兄弟の契りを交わしており、物心両面から支援していたという。今も近藤に関する資料が多く残されており、館内で展示している。同館の館長であり24代目当主である小島政孝さんによると、上溝の名主で地元の名士でもあった佐藤為彦は小島家と親族関係にあり、同じく近藤を支援していた人物。「近藤が上溝を訪れたのは上洛前で、おそらく出稽古か、支援者である佐藤を訪ねてのことではないか」と推測する。
同館では、小島家の小島守政が1874年にまとめた史料「両雄逸事」を所蔵。近藤と土方歳三にまつわる話をまとめた史料だが、この中に、近藤が上溝を訪れたというエピソードが残されている。同史料によると、近藤は上溝の佐藤家を訪れた際、吉田松陰も師事した思想家・佐久間象山の門弟である蘭方医の鷹取胖斉に出会ったという。大柄だったと伝えられる近藤と変わらないほどの大男で、奇人としても知られていた。
1椀差で惜敗
あるとき、佐藤が夕食時に近藤と鷹取との「とろめしの大食い競争」を提案。近藤は出稽古後で空腹で、なおかつとろめしが大好物だったためそれに応じたという。最終的に近藤は19椀を食べたが、鷹取の20椀には及ばず敗北。この話は「負けず嫌いの近藤も、ついに、鷹取胖斉の健啖ぶりには兜を脱いだ」と締めくくられている。
同史料は、明治に入り、逆賊とされていた近藤や土方の汚名を晴らすために鹿之助が精魂込めて撰文したとされる「両雄士傳」の補完資料。小島館長は「当家に伝わる近藤らの説話や伝聞をまとめたもの」と説明している。さらに「もしかしたらまだ市内のどこかの個人宅の蔵などに、近藤に関する貴重な資料が眠っているかもしれない」と期待を寄せている。
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