「人権」ときいて、最初に思い出したのはアルペ難民センターだった。毎週日曜日に、もとは修道院だったアルペの聖堂で合唱を習っている。指導者は私の祖母。鎌倉市合唱連盟の理事長として、市民に歌を教える声楽家だ。アルペには、ジュニア合唱団なぎさ道という、子供とその親のための合唱団の数人が来ている。小学生十人ほどと中高生が四人。子供から大人まで多くの人が難民の人と関わることができるのが、今のなぎさ道の魅力の一つだ。
今現在私は、六人の難民の方と関わらせていただいた。今回はその中の三人との思い出についてと、そこから考えたことを、話そうと思う。
今までアルペで半年間過ごしてきた中で、一番印象的だった言葉がある。それは、
「誰かに誕生日を祝ってもらえるなんて」
というAさんの言葉だった。十二月にクリスマス会と称して、アルペの人々を呼び、小さな発表会を行った。コロナ禍で距離をあけての開催だったが、皆で歌ったことで心はぐっと近づいたと思う。発表会の後、アルペの事務局長の方から、Aさんの誕生日という情報をいただき、皆でハッピーバースデイの歌を歌った。歌い終える頃には美しい黒曜石のような瞳には一粒の涙が。
「今年も一人だと思っていた」
誕生日という一年中で一番おめでたい日も、難民であるAさんは、一人だったのだ。衝撃的だった。私の中では当たり前のように家族に祝ってもらっていた誕生日も、毎年毎年一人ぼっちだったという。どんな気持ちでいたのか、私には想像もつかない。それから私は、自分の手帳にアルペの人たちや、家族、友人の誕生日を聞いてまわり、メモにとった。この衝撃的な一言は、私が「中学生」が「難民」へできることを考えるきっかけとなった。まだ子供の私には、たくさんの人を助けることはできない。それなら、私の周りの人たち、大切な人たちを大事にしよう。同じように笑い合いたいと思った。そのため、思いついた方法の一つが、誕生日を祝うことだったのだ。
また、アルペ難民センターにはまだ小さな親子が住んでいる。5歳のBちゃんと、そのお母さんのCさんだ。Bちゃんとは十月頃に会ってから、毎週一緒に遊んでいる。周りに小さい子供がいないため、Bちゃんの遊び相手は私たちだけだった。山に散歩に行って、帰りにアイスを食べるのが、一連の流れ。少し前までは、日本語と英語、フランス語、そしてBちゃん語を話すので、お互いに何を言っているかわからなかったが、一緒に過ごすうちに意思疎通できるようになった。初めてできた会話は、
「I’m hungry.」
「Me too!」
だった。あの時の感動は今でも忘れない。違いという国境をこえて、Bちゃんと一つになった瞬間だった。また、不思議とBちゃんは私の父のことを「Daddy.」と呼ぶ。それがまたかわいくて仕方ない。かわいいといえば、六月にBちゃんの妹、Dちゃんが産まれた。難民の人が子供を産むのは難しいそうで、合唱団の皆でベビー服を寄付したりしていた。無事に産まれるか心配していたが、産まれたDちゃんは大きくてかわいくて。あの小さい手に幸せをたくさんつかんでほしいと思った。だって、BちゃんもCさんもDちゃんも大好きだから。
「アルペ難民センター」は、思い出の場所であり、多くを学んだ所でもある。一年前まで、関心もなかった難民の人にこんなにも温かい心を抱けるのだ。もっとたくさんの人が、難民について興味をもち、共に生きられる社会をつくるべきだと思う。Bちゃんたちの過ごしやすい国は、全ての人にとって過ごしやすい国である。だからこそ「中学生」の私にできる精一杯をやりたい。人権とはきっと、一人ひとりが自分の周りにいる数人を幸せにすることからはじまるものだと思う。それが広がれば、日本中、いいや世界中の人が幸せを感じ、笑顔になれる。そのときはじめて、人権が守られ、「平和」といえる世界になるのだと、私は思う。 (原文のまま)
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