かちかち山、白雪姫、浦島太郎…幼い頃、絵本や紙芝居を通じてこれらの物語に親しんだ人も多いはず。しかし、それらにもともと絵はなく、物語は言葉だけで表現されるものだった。「昔話は語られている間にだけ存在する」。それらは何百年もの間、人から人へ語り伝えられてきた。
日本には30万もの昔話が存在するという。口承文芸学者の小澤俊夫さん(85)=川崎市多摩区在住=は、その昔話の伝承に使命感を覚え、1960年代から研究を深めていった。92年からは全国各地で市民大学「昔ばなし大学」を開講。98年には独自の昔話研究と実践、若手研究者の育成を目的に同区で「小澤昔ばなし研究所」を設立した。昔話の研究と語りの現場を結びつけることに努めている。
小澤さんはかつて相模原に住んでいたことがあり、講演もこれまでに3回開いている。今回は小澤さんに昔話の魅力、相模原の思い出などを聞いてみた。参考資料:日本の昔話第一巻(福音館書店)
「昔話は3、400年前、おじいさん、おばあさんが孫に話していたもの。夜の娯楽だった。おじいさん、おばあさんは自分の子どもが親になる過程をロングスパンで見ている。今は子どもを一世代で育てるケースが多い。昔話にはもう一世代前のじいさん、ばあさんからのメッセージが込められている。『人間ってこんなもんだ』ということがしみ込んでいる」
昔話とは、古くから主に農民の間で口伝えられてきた物語のこと。必ず耳で聞かされていたため、昔話は「わかりやすい」簡潔な文体となった。また、聞きやすいよう、同じ場面がでてきたら同じことばで語る。そして、「3回の繰り返し」を好み(例えば白雪姫は本来3度殺される)、それによって物語にリズムをつける。
「子どもにとってリズムは大切な喜び。赤ちゃんのときは抱っこしてリズムをとるでしょ」
日本の昔話の内容は、人間が自分をとりまく自然や、そこに住む動物、妖怪たちとどう付き合うか、を語るものが多い。昔の人が自然の中で生き抜いた姿が語られている。また、子どもを主人公としたものが多く、それらは主人公が変化しながら成長していく姿を語っている。
「生命は残酷な上に成り立っている」
昔話は残酷なものもあり、そのために内容を書き改められてしまうこともある。
例えば「かちかち山」。山仕事の邪魔をしたタヌキは、爺によってタヌキ汁にされそうになる。しかしタヌキは婆を殺して婆に化け、婆汁を作って爺に食べさせる。これが伝えられてきた内容だが、このエピソードは得てして「残酷だから」とカットされ、ウサギがタヌキをこらしめる部分だけで「かちかち山」の昔話としてしまうことがある。
しかしこのエピソードは、共に自然の中に生きる人間と動物とが、食うか食われるかの自分の存在をかけた戦いをしている物語。人間は自分の生命を維持するためには、ほかの生物の生命をもらわなければならない。逆に、人間も動物に生命を奪われることもある。「かちかち山」は、「生命とはどうやって成り立っているか?」という根本問題を語っている。
「虫を殺して初めて生命の大切さに気が付く。その経験が大事」
『日本の昔話』(95年)の中で小澤さんは次のように記載している。「こうして生命の真相を語る昔話は、現在の日本のように、豊かな、清潔な暮らしの中で育つ子どもたちには、とくに必要だと思います。自分たちが他の動物たちの生命をもらって生きていることが、豊かさのために見えなくなっているからです」
「(その方が楽だから)スマホなどを簡単に与えてしまう親もいる。子育ては手間がかかるもの。何でもそう。例えば料理を作ること。今ある食材で何を作ろうか?工夫が想像力を生む。食材を買うのも楽しくなる。自分も小さい頃から作っていた(そう教育された)。征爾(せいじ)(俊夫さんの弟、世界的な指揮者)だってウィーンにいた時は自炊。自分の2人の息子(次男はミュージシャンの健二さん)もできるように育てた。手間だけど作ること、自分でやることで、世界が広がる。外食で済ませていたらこうはいかない」
小澤さんは1965年頃、それまで住んでいた世田谷区から相模原市に転居した。「近所にいい人ばかりでコミュニティがあった」と当時を振り返る。住居は現在の淵野辺公園の近くだったが、当時はまだそこは在日米軍施設で日本人は利用することができなかった。「子どもたちは近くの林や空き地でよく遊んでいたよ」。71年から73年までドイツで過ごし、帰国後再び相模原で暮らす。そして79年に現在住む川崎市多摩区へ転居した。
小澤さんに子育て世代におすすめの昔話を尋ねると、「うまかたやまんば」「三年寝太郎」と答えてくれた。「子育てには親の姿勢が影響する。(子どもに対し)妥協はしても、降伏はしないように」とのアドバイスもくれた。
■小澤昔ばなし研究所
【電話】044・931・2050