今年は沖縄返還50年。本紙では5月15日の復帰記念日に合わせ、市内の沖縄出身者に話を聞いた。
ドル→円への不安
相模原沖縄県人会会長の知名儀勇(よしお)さん(60)はキャンプハンセンのある金武(きん)町(ちょう)出身。返還時は小学4年生。「母がお金の心配をしていた」ことを覚えている。返還前年、固定相場制から変動相場制へ移行したいわゆる「ニクソンショック」で1ドル360円だった為替レートが305円まで引き下げられたからだ。後に差損分は日本政府が補償することが決まったが、幼心に母の不安を肌で感じ取っていた。
返還を強く実感したのは「730(ななさんまる)」と呼ばれる復帰から6年後の車の左側通行への変更。「教師たちが何カ月も前から注意していた」「バスに乗った時に違和感があった」と振り返った。
18歳で進学のため沖縄を離れたが、50歳を過ぎてから沖縄民謡に興味が出てきた。また高知県出身の妻が沖縄にハマっており、帰省とは名ばかりの観光旅行に。「面倒臭い」と言いながらも山原(やんばる)の自然の魅力に触れることができたのは妻のお陰とほほ笑んだ。
基地、応分負担を
麻溝台の與儀(よぎ)敬太郎さん(84)は小禄(おろく)村(現那覇市)出身。1957(昭和32)年、高校を卒業した與儀さんはいすゞ自動車に就職が決まり、パスポートを手に沖縄を離れた。船で2日かけて東京湾についた。「空が煙で真っ黒に見えた」と当時の第一印象を振り返る。
返還の年、沖縄での仕事に恵まれた。いすゞで輸出車などの査定の仕事に携わっていた経験から、財団法人日本自動車査定協会に出向、返還の年の6月から半年間、査定の実務を指導する立場で妻と二人の娘さんと沖縄へ渡り実家から仕事場へ向かう機会を得た。
独立し、79歳まで現役で働いた。仕事を退き、改めて故郷・沖縄の基地問題に目が向いた。與儀さんが沖縄にいたのは18歳までだったため、行動範囲も狭く「那覇の街の中すら良く知らなかった」という。戦闘機は飛んでいたが基地のことも良く知らなかった。沖縄に米軍基地の7割が集中している現状に「戦後75年以上が経過してなお今だにそのまま。なんとかしたい」という思いからだった。ちょうどその頃(2018年)発足した「沖縄の基地を引き取る会首都圏ネットワーク(神奈川)」に入会した。「沖縄は経済的に基地に依存していると言われるが逆。むしろ邪魔」「日米安保が大切ならば尚更、基地は日本全体で応分負担をすべき」と語った。
與儀さんは5月29日(日)には溝の口駅前で開催されるイベントでスピーチを行う予定。
無関心という差別
相模大野在住の新城肇さん(62)も「引き取る会」の会員。返還は中学1年生の時。所属していた吹奏楽部は全国大会に出場するほどの強豪校で部活に明け暮れており、「特に覚えていない」という。やはりドル→円の衝撃は大きく、家の前のドーナツショップのドーナツが3倍になったいたという。一方で、返還前220ドルで買ってもらえなかったヤマハのトランペットを返還後6万4000円だったが親が買ってくれたという。「親も感覚がよく解らなかったのでは」と笑った。浪人生から沖縄を離れ、就職してからもほとんど沖縄に帰ることはなかった。基地問題については「常に関心あるつもりでいた」が、実際に強く関心を持ったのは2016年の高江のヘリパッド移設工事の警備に機動隊員が派遣された一件がきっかけだった。「戦後も返還後も変わらない状況に、諦めムードになっている。無関心という差別も問題」とムードの原因を分析する。
新城さんの両親は昭和一桁生まれの戦争経験者。基地問題について返還時に掲げられていたスローガン「核抜き・本土並み」を期待していたが「実現されなかったことに落胆していた」という。返還は日米安保継続のためのに利用されたと分析する。
ロシアのウクライナ侵攻は「戦争が現実味を帯びてくる」と危惧する。「戦争を経験した世代にもう一度戦争を見せてはいけない。当時の思いを味合わせてはいけない」と厳しい口調で語った。
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