日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞が10月11日に発表されたことを受け、被団協に属する県組織「神奈川県原爆被災者の会」会長の丸山進さん(85/南区相模台在住)に話を聞いた。原爆投下から来年の夏で80年。世界で核兵器使用の危機感が高まっている今、核兵器の廃絶を願い長年にわたって被害の実情を伝えてきた丸山さんは何を語るのか。(取材=2024年11月1日)
――ノーベル賞受賞の知らせを聞いて
「発表があったのはちょうど日本被団協の代表者会議があった次の日のことで、自宅に帰ってきてから夜のニュースで知りました。テレビに代表委員の方が映っているのを見て、私もジーンときました。原爆を落とされたのは79年前。11年後の1956年に日本被団協ができ、それから約70年にわたって国内外に、核兵器の廃絶『二度と私たちのような人を作らない、体験させない』ということをずっと叫び続けてきた。長い長い間、数限りない地道な活動をしてきて、その積み重ねが今回結実したと思うんです。これまでにも何度か候補に挙がっていた中で、諦めかけていた状態での受賞。嘘じゃないかというのが正直なところです」
――自身の被爆体験は
「5歳の時、原爆ドームから2キロくらいのところにあった自宅の近くで遊んでいた時に原爆が落とされた。大きなガラスが刺さって、その傷は今でも残っています。亡くなった下の姉は遺体も見つからず、自宅にいた祖母もそれから2週間くらいして亡くなりました。私は神戸で生まれたのですが、空襲がどんどん激しくなり自宅が全焼してしまったので、親戚を頼って広島に引っ越してきた。その年に原爆が落とされました。その日のことは結構覚えていますが、その後の詳しいことはほとんど覚えていません。その年の暮れに広島を離れて長崎で育ったので、その後の広島の状況もほとんどわからない。それからは上の姉が母親がわりになってくれました。自分が被爆したということは中学くらいまではほとんど意識していなかったと思います」
――被爆者としてのこれまでの活動を振り返って
「65歳で相模原の原爆被災者の会に入って、約20年になります。日本被団協ができる以前というのは、被爆者は何の援助も受けることができず、医療も受けられなかった。『原爆症はない』『放射能の後遺症はゼロだ』と言われていた時代。それからずっと被爆者の先輩たちが政府に対して、国家補償や医療の支援、そして核兵器の廃絶を訴えて活動してきたわけです。私もその恩恵を受けている。会に入って活動していくうちに、自分も『なんかやらなきゃいけないな』と思うようになりました。当初は、私は5歳の時の被爆で部分的にしか覚えていないので、とても語り部活動なんてできないと思っていたんですが、前会長の久保ヨシミさんが精力的に活動をされているその熱意に感銘を受けて、私も学校での被爆証言や平和行進、原爆展、市の平和の集いなどに参加して、原爆の実情を伝えるという語り部活動を行ってきました。特に話を聴いた子どもたちからもらう感想には励まされてきたし、この活動が非常に大事なんだと実感しました。コロナ禍になってからは学校での証言活動はできなくなり、今もまだ数えるほどしかなくなってしまっています」
=次号に続く
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