史上初の2000年代生まれのF1レーサーとして、2021フォーミュラ1グランプリ(F1)に参戦する。F1の直下カテゴリであるF2、3をそれぞれ1年というスピードで駆け抜け、自身も「別格」と称する舞台に挑む。3月26日、世界中のF1ファンたちが注目する中、中東の国・バーレーンで開幕、約9カ月にわたる決戦の火ぶたが切られる。
角田選手と父・信彰さんのインタビューを通して、これまでの活躍や地元への思いを紹介する。
角田選手の競技人生は家族で訪れた中井インターサーキット(中井町)で、キッズカートに乗ったことから始まる。偶然サーキット場の前を通りかかり、「4歳から搭乗可能」の文字を見かた信彰さんが、体験の一環として試乗させたのがきっかけだった。
ジムカーナ経験のある信彰さんの指導や細やかなサポートもあり、カートに興味を持った角田選手の腕はめきめきと上達。初めて臨んだ大会では2位を獲得するなど、いきなり才能の片鱗を見せた。
以降も数々の大会で成績を残していくものの、角田選手が「気持ちが変わった試合」として挙げるのは、13歳の頃、初の海外での大会となったフランスでのこと。それまでは決勝になると緊張から、思うようなパフォーマンスが出せないことも多かったが、海外選手のアグレッシブさに衝撃を受けた。「恐れないことが強さになる」。その時に学んだ積極性を、今でも自分の武器にしている。
父と二人三脚
15歳でチームに入るまで、大会に出場する際は信彰さんがメカニックとして参加し、親子二人三脚で励んできた。週末には全国各地のサーキットに足を延ばし、技術を磨いた。ただし厳しい練習を積むばかりではなく、「あくまで楽しみながら、家族の団らんの一環として」。それは信彰さんの「才能はつくるもの。自分が楽しいと思うから、上手くなる」という考えによるものだ。
自身もモータースポーツに長年取り組んでいた経験から、技術面での指導も担ってきた。「ドライビングの腕を上げることで、一番重要なのは『ブレーキ』と言い聞かせてきた」と信彰さん。「サーキットのコンディションが悪いときこそ、ブレーキさばきが関わってくる。ブレーキの使い方でドライビングの引き出しを増やす」
角田選手は父の教えを忘れず、その思いに応えるように、異例のスピードでモータースポーツの世界を駆け上っていく。17年からはFIA―F4日本選手権に参戦し、翌年にはチャンピオンに。海外進出した19年に、FIA―F3世界選手権に参戦し、イタリアのモンツァで優勝した時、信彰さんは「F1の世界でやっていけるな」と確信した。
その確信通り、角田選手は20年には日本人として7年ぶりにF1の舞台に立つことになった。信彰さんは「階段を着実に登っていったので、驚きはしなかった」としながらも、「F1昇格が決まるF2での4位争いではハラハラした」と振り返る。「これからも小石を積み上げるように、地道に実力をつけていってくれれば」
「相模原を盛り上げたい」
二本松出身。今年の正月には久しぶりに実家に帰り、家族と自宅でゆっくり過ごした。「相模原は居心地の良い町。すごく好き」と笑顔を見せる。同じく市出身のF1レーサー、片山右京さんについては「すでに引退されていて、実際にレースを見たことはないが尊敬するレーサー」と話す。
「レーサーとして有名になり、相模原を盛り上げられるように頑張りたい」。相模原に「世界最速」の吉報をもたらす。角田選手の挑戦は、これから始まる。
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