何度も推敲を重ねて、自分の思いを十七文字に託す。20代後半、長野県松本で宮坂静生氏の講座を聞き、俳句を始める。同氏主宰の俳句会”岳”で学んだ。そして東京で藤田湘子氏、名古屋で宇佐美魚目氏を師事し、2008(平成20)年、町田市で主宰する俳句会”都市”を立ち上げた。
「最初は感じたことなどを十七文字にするのは楽しいの。でもね、だんだん言葉を生み出すのが苦しくなるのよね」。文字数が限られているため、動作やモノに託して自分の気持ちを表すのが俳句だという。ちょっとした不安、ちょっとした悲しみ、ちょっとしたうれしさが俳句の十七文字に込められている。
「作品は作者の手を離れると、もうどうしようもないの。どう詠まれるかは詠み手に委ねられているからね」。こういうことを言いたかったにも伝わらなくて残念ということも多いという。「でもね、詠み手のおかげで作品がどんどん膨らんでくることもあるの。作った本人も気が付かなかったことを指摘してくれたりね」。宇佐美氏には「小さく伝えて大きく開いてもらえ」と言われた。十七文字という小さな言葉の裏にはたくさんの要素があり、詠んだ人の体験に合わせて、それぞれの世界で鑑賞してもらい、句は成長していく。
もちろん、詠み手に句の価値をすべて託すわけではない。自分の気持ちを整理し、表現したい感情を呼び起こす。一瞬をとらえた感情を季語や助詞、動詞、名詞を駆使して、伝えたいことをはっきりさせていく。そぎ落として、そぎ落として伝えたい気持ちが表れてくる。「『伝えたい』という気持ちがなければ、句にならないわ。まずは『伝えたいんだ』という気持ちが湧いてこないと」
表現者として作り出した作品には責任がある。「へんな作品は世に出せないでしょ」。発表した句の後ろには出せなかった句がいっぱいある。「駄句をたくさん作らなきゃね。でないと良句はできないわよ」。思ったことはどんどん句にしていく。後で、こんなこと言ってはダメだなと発表せずに引っ込める。『伝える』という行為も、「待てよ」の延長線上にある。「これは私の思いなのかな、これで伝わるのかな」と推敲を続ける。それが作者としての責任。
”片手から両手にもらひ桜貝” 中西夕紀
多くの人がそれぞれの経験に合わせて句を解釈していく。片手は父なのか、恋人なのか、桜貝を両手でもらったのは子どもなのか…。選び抜かれた言葉で作った句は、多くの人の心の中でも広がっていく。
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