大正時代から昭和にかけて、鑓水を拠点に電車を走らせる計画があった。現在の、相模原市緑区川尻から、多摩市一ノ宮周辺へとつながる計画だった南津電気鉄道だ。国から電車運行の許可を得て、工事がスタートしたものの、資金難となり計画が頓挫して今年で90年。地域の記憶から消えつつある「幻の鉄道」を振り返った。
この鉄道の軌跡をまとめた書籍「幻の相武電車と南津電車」(サトウマコト著)によると、発起人は鑓水出身の大塚卯十郎さん。現在の台東区・浅草で役所勤めをしていたものの、1923年に起こった関東大震災により働き場と住居を無くし、故郷である鑓水に大塚さんが戻ったことから、鉄道設立を目指す物語は始まる。
「街のために」
地元に戻り、大塚さんが新たな仕事として選んだのが旅館経営。仲間と共に川尻にある土地で始めたが、当時、鑓水から川尻までの交通手段は基本、徒歩。片道で4時間以上かかってしまうことから、大塚さんは交通の便の向上を考えるように。そこで「わが村を豊かにするためにも」と行き着いたのが鉄道の開通だったようだ。
背景にあったのが、私鉄の開設ブーム。大塚さんが小田急線の開通に携わった人物らと面識があったという記載が本にある。
「その後、多くの賛同者が表れ、川尻と今の京王線・聖蹟桜ヶ丘駅につながる路線の計画が立てられたようです」と歴史を調べている市内在住の「いっしょに学ぼう由木の会」の平野雄司さんは話す。
そして電車の名称は、現在の一ノ宮周辺を指す南多摩郡関戸と津久井郡川尻を結ぶことから、それぞれの頭文字を取り、南津電気鉄道となったとも。
相模原線はなかった?
国から鉄道運行の許可が下りる頃には、地元はわき、路線地域の活性化につながる起爆剤としての期待を一身に集めるようになったようだ。
が、そこから工事が始まると状況は一変する。運行開始を目指し鑓水に設立された会社は次第に資金難へと陥っていくこととなり、今から90年前の1929年に計画は頓挫。世界恐慌などが後押しした。
平野さんは「開通していたら、現在走っている京王相模原線は開通していなかったのではないかな。開通を目指し街が盛り上がったにも関わらず、話が無くなってしまった。光と影を感じるね」と話し、街の指針の一つとして話しを伝承していってもらいたいと語る。
一方、多摩ニュータウンの歴史や課題を調査・研究している「多摩ニュータウン学会」の西浦定継さん(明星大学教授)は「ニュータウンが全面買収できたのは、農家が疲弊し土地を売りたいというケースが多かったことも理由になっている。そのため、開通していたら、地価があがり土地買収が進まずにニュータウンは無かったか、規模が小さくなっていたと考えられる」としている。
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