地域経済社会の振興を支えた2人に戦時中から復興の時代について話をきいた。2人とは、八王子商工会議所名誉顧問でたなべ物産(株)会長の田辺隆一郎さん(79)と同会議所顧問で(株)スーパーアルプス創業者のひとり内野紀宏さん(79)。同じ高校の同級生で、2000年代は商議所会頭(田辺さん)、副会頭(内野さん)として八王子の発展に大きく貢献した。
前会頭、元副会頭の記憶
駅まで焼け野原
――御二方とも戦争を体験されていますね
内野さん「4歳のときだったのであまり記憶にありません。ただ、B29が飛んできたのを面白半分で眺めていたのは覚えています」
田辺さん「自分は空襲警報をよく覚えています。八王子空襲は8月2日でしたが、3月か4月くらいから時々鳴っていたと思います。都心が攻撃されたときも鳴っていました。その度にとても怖い思いをしました」
内野さん「B29が落とす焼夷弾は明るくて、夜でも昼間のようだった」
田辺さん「元本郷町の自宅は幸い焼けなかったですが、近くの家まで燃えてきました。翌日、2階から外をのぞいてみると、八王子駅まで見えました。その間はほとんど焼け野原でした」
無いものばかり
――当時の生活はいかがでしたか
内野さん「父親が八百屋を営んでいましたが、それでもモノがなく、主食はさつまいも。乾燥させて団子にしたりして食べていました」
田辺さん「お米を食べるとしても、とても貴重だったので必ず何かと混ぜていました」
内野さん「履物がなくて、下駄で通学をしていましたね。冬は霜焼け、あかぎれ。でも泣いている子はいなかった。みんな強かったですね。あとトイレの紙もなく新聞紙をやわらかくして使っていました」
田辺さん「小学校に入ったばかりの頃、校舎がなくてプールで授業を受けました。給食もなく弁当はご飯と梅干だけのときもありました」
糸商、八百屋から
――その後、お仕事はどうされましたか
内野さん「父親は八百屋ながら、川でうなぎをとって売っていました。とても熱心に働いていました。自分は銀行に勤めたのち、店を継ぎました。昭和39年のことです。アメリカからスーパーマーケットという業態が入ってきて『これからの時代に求められるはず』と八百屋から発展させました」
田辺さん「今は不動産業、建設資材の販売にシフトしていますが、戦前、戦後と繊維産業の糸商でした。自分が学生の頃、織物業は全盛期。そのような中で先代は経営について『糸のように細く長く』と心掛けていました。おかげさまで今につながっています。自分は昭和50年に業態を現在の形に変え、昭和56年に社長を継ぎました」
コロナ時代の展望
――そしてコロナの時代です
内野さん「仕事をする上でどんな時代でも変わらず大事なのは『人を裏切らない』『嘘をつかない』『お客様に喜んでもらう』こと。これからも大切にしていきたい」
田辺さん「オイルショックやリーマンショックなどかつての危機は『努力をすれば何とかなる』雰囲気がありました。ただ、今回のコロナは先行きが見えません。その中でも八王子はいい環境にあると思います。自然豊かで伝統文化も残っている。ポストコロナにそのような点が見直され、素晴らしいまちになっていくと考えます」
![]() 同会議所元副会頭の内野さん
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