満州 妹との別れ
横川町にある柴田産婦人科医院の産婦人科医、柴田穣一理事長=写真=は11歳のとき、満州で終戦を迎えた。父親がエンジニアとして派遣されており彼の地で、家族で過ごしていた。
一戸建ての「洒落た家」で暮らしていた。だが、戦争の終わりが告げられると事態は一転。柴田さんによると「何百人もの中国人が日本人居住区に押し寄せ、強奪を繰り返した。命だけは助かりたいと思った」そう。
また、「ようやく日本への引き揚げとなったがその道程は壮絶だった」と振り返る。屋根のない貨車に詰め込まれ、日差しと風雨にさらされながら港へ向かった。その過酷な移動は1ヶ月に及んだそう。その中で多くの子どもが栄養失調からくる衰弱で「犠牲」になった。3歳だった柴田さんの妹もその一人。父は停車した駅の近くで穴を掘り埋葬した。「戦争は人を人でなくしてしまう」──。柴田さんはその光景を忘れられない。
今も現役「命やりがい」
1973年(昭和48)、柴田さんは40歳で医院を開設した。子どもの頃、船で日本と満州を行き来していた経験から「船乗りになる」という夢があったが、高校の担任の勧めで医師の道へ、また大学の恩師の勧めで産婦人科医の道を歩むことになった。
柴田さんは今月、87歳になる。今も現役医師として活躍する。「元気な赤ちゃんを見るのが何よりのやりがい。疲れも吹き飛びます」。一方、今も軍歌を思い出すことがあるそう。特攻隊になる者もいた海軍飛行予科練習生(予科練)の歌だ。「命を大切にしないといけない。(彼らのことを考えると)涙が出るね」
八王子版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|
|
<PR>