「朝は雨降りしも十時頃より晴る、正午南西之方面より地震来る、外に出れはますます甚しく、遂に亀裂来り一所にある能はず、人皆は這ひ又は戸板上にさくる始末、それより数十回の震あり」
大正12年9月1日付
『高下日記』より―。
これは、今から90年前、下鶴間の教師、高下恭介(文中・敬称略)が綴った関東大震災当日の日記の一文。
この日記は、戦後の大和町で町議会議員を務めた名士、高下恭介が大正8年から昭和35年まで書き続けたもの。教師時代の37歳から晩年の78歳まで40年間にわたる日記には関東大震災の記述もある。
先人の記録から震災の様子をひも解く。
本震前に3度の揺れ
震度6、マグニチュード(M)7・9の揺れが関東南部を襲ったのは大正12年9月1日だが、その予兆とされる地震が南関東であったという。
大和市発行の『大和市史ダイジェスト版』でも大正9年5月13日と10年12月8日、11年4月26日に大きな地震が起こったと伝えている。
その痕跡が『日記』にもある。大正9年にこそ記述はないが、10年12月9日には「昨夜十時頃なかなかの地震ありたり」、翌年4月26日は「今日午前十一時二十分頃大地震」、27日には「昨日の大地震は其処比処にて倒れたる家出来て死傷者を出したるものの如し」との記載がある。
海鳴りの記述も
冒頭に記した関東大震災当日に高下はこんな記述もしている。
「夜は道旁に避難所を作り、三家一つにかたまりて、ない時々に来る、東京横浜火災」
翌2日には「地震来る、しばしば」「午後横浜方面よりの避難の人そくそくと来る様目も当てられず、お茶やご飯をなす」、3日は「地震来ること十数回」「村中を歩きて震害の様子を見る、倒れし家数知らず」、4日から14日にかけては「海鳴り耳につく」との記述も続く。
翌年の丹沢震源
余震が続く中、年が明けた大正13年1月15日には、激しい揺れの記述がある。
この日の日記には「未明(六時前)大地震来る」「圧死せし」「心臓の為死せし」「銀行も家のこはれは前より甚だし」といった生々しい惨状が綴られている。
この地震は丹沢山地が震源のM7・3(阪神淡路大震災と同規模)の余震で県中南部に被害を与えた。
『高下日記』には、大正12年9月から翌年末間までの1年半の130日以上に「余震」の記載がある。中には「余震二三回」と記述された日もあった。
『大和市史ダイジェスト版』にはこんな記載もある。
「絶えず体に感じる有感余震が村人の恐怖心をあおっていた」「被害を受けた人たちの中には竹やぶに寝泊まりする者もいた」
1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災を目の当たりにした今、地域に残された先人の記録に目を向け、地域防災の一助にしたい。
《参考文献》…大和市発行大和市史ダイジェスト版、大和市史資料業書『高下日記』第一集・第二集
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