太平洋戦争の終戦から明日でちょうど75年。平均寿命が延びているとはいえ、戦争体験者から当時の様子を聞くことは年々難しくなりつつある。そんな中、元中学校教員の津田憲一さん(66)は、沖縄・座間味島で出会った「集団自決」を生き残った人たちの体験を伝える「語り部の伝え部」として活動を続けている。
きっかけは教科書検定
2008年10月。秋休みとリフレッシュ休暇を利用し、津田さんは9日間の旅程で、沖縄県の座間味島を訪れる旅を計画する。
目的は文字通りリフレッシュのための観光。そして「集団自決」のあった現場を見る事だった。
きっかけは、前年の9月29日に宜野湾(ぎのわん)海浜公園で行われた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」。「集団自決」に関する教科書の記述について文科省が出した検定意見の撤回と、それにより削除された記述の回復を求め、11万6000人もの人が集まった大会の報道をみて、津田さんは迷わず「現地に行ってみよう」と思い立った。
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津田さんは、長崎の離島出身。大正生まれの父は、海軍の軍人として戦地へ赴いた経験を持ち、母も前夫がフィリピンで戦死するなど、辛い思いを抱えていた。戦争について、両親が「多くを語ることはなかった」と振り返る。
法学部だった津田さんだが、教育実習で子どもたちとふれあう楽しさを知り、教師の道を志す。津田さんが教員となった1979年当時は、組合の力も強く、「平和教育も推進していた」時代。ただそれ以上に現場を悩ませていたのは「校内暴力」。荒れる学校現場に津田さんも「身体を張って更生に取り組んだ」という。だが、生徒指導に熱を入れていた分、授業への取り組みは、ともすれば「後回し」気味。「手ごたえ」を感じる授業は、ずっと出来ずじまいだった。
宜野湾での「教科書検定」の報道は、そんな社会科の教員としての思いに、新たな火をくべる熱源になった。当時54歳だった。
偶然の出会い耳傾ける毎日
座間味島に着いた津田さんは、まず役場で資料をもらい、道すがら現地の「オバア」に道を尋ね、「集団自決」のため、多くの島民が集まったという「忠魂碑」の場所を訪ねた。忠魂碑からの帰り道、オバアに道案内のお礼を言い、中学の社会科の教員であること、戦争の勉強に来たことを伝えた。オバアは、「それならば」と、その場で長男に電話、長男は車で島内のあちらこちらにある「集団自決」が行われたという壕を案内してくれた。夜には食事を振舞ってもらい、戦争当時の事を話してくれる人に連絡を取ってくれた。
「集団自決」の場を訪ねるだけのつもりだった津田さんの行動は、翌日から一変。一人また一人と証言者の紹介が続き、結局、9日間で11人の「オジイ」「オバア」から話を聞くことができた。
「あなたに託したの」
「死ぬことが大前提」「集団自決に反発はなかった」。当時をそう振り返るオジイ、オバアたち。証言者は、目の前で、隣人が手りゅう弾を破裂させ、頸動脈を切るなど、自決していく中を「たまたま」生き残った。彼らは、生きていることに負い目を感じ、死んでいった人たちに申し訳ないという思いから、60年以上口を閉ざしていた。「かさぶたを剝ぎ、抉り出す作業」と戦争の事を語る思いを表現するオジイ。「今でも思い出すと辛い」と涙するオバア。メモも録音機も持たず、カメラ一台で訪れた初対面の津田さんに、文字通り絞り出すように語ってくれた。「『教科書検定問題』もあり、子どもたちに正しく伝えて、という思いがひしひしと伝わってきた」(津田さん)。昼間、話を聞き、夜宿舎で、思い出しながらメモを起こしていった。帰路につく前日、「オジイ」がくれた本には「いちゃりばちょうでぇ ぬぬへだてぃあが(行き逢えば兄弟 何の隔てがあるものか)」の文字が。毎日熱心に話を聞く津田さんに対する信頼の思いが込められていた。
休暇を終え、この体験をどうやって生徒たちに伝えるか。津田さんは思い悩む。「話して伝わるのか?そもそも戦争体験者でもない自分が話すことは、おこがましいのではないか?」。悩む気持ちを同僚に伝えた。途中、話を遮り、同僚が投げかけた言葉に津田さんは驚く。「おい、メモ無しに1時間以上喋ってるぞ。まだ覚えてるうちに書き出せ」。
歴史の授業で、太平洋戦争が出てくるのは年明けの2月頃。津田さんは、それまでに原稿を打ち上げ、生徒たちに配布しようと決意する。ただ簡単なメモと記憶だけで、生徒たちに伝えてよいものか。不安に思っていることを「オジイ」に相談すると、「是非やりなさい。オジイ、オバアがあなたに話したということは、あなたに『託した』ということ。あなたが聞いた戦争、集団自決、座間味をそのまま子どもたちに伝えればいい」と背中を押された。
津田さんは、生徒たちが関心を持ってくれるように証言集とはせず、自らの感じた思いや写真を織り交ぜ、2か月かけて「旅日記」に仕上げた。
オジイ、オバアたちの言葉は脚色せず、できる限りそのまま使った。
授業は、まず黙読してもらった。普段はガヤガヤする教室内だが、この日の生徒たちは「びっくりするくらい」集中して読んでくれた。「オジイ、オバアの『生の言葉の力』のおかげ」(津田さん)。60余年の歳月、1500Kmの距離。時空を超え、オジイ、オバアの体験が生徒たちに入っていく様子に「涙が出た」と振り返る。黙読の授業は3時限分続き、津田さんは、生徒たちに感想文を書いてもらった。
最後の1人まで聞き続ける
苦労して出来上がった旅日記。津田さんはお礼の意味を込め、春休みを利用し、一冊にまとめた生徒たちの感想文と旅日記を、座間味のオジイ、オバアに届けに行った。「東京から取材に来る人はいつも一度きり。わざわざ来るなんて」と、嬉しそうに笑顔で迎えてくれた。新しい「オジイ」「オバア」の話も聞けた。その話を新しい旅日記にし、また出来上がると届けに行った。旅日記は6冊を数え、今でも交流が続いている。
新型コロナウイルスの影響で、今春は座間味には行けていないが、「座間味に住む最後の戦争体験者の方が亡くなるまで聞いていこう」と心に決めている。
17年からは、先輩の実家に誘われ、奄美大島の加計呂麻島(かけろまじま)でも「集団自決」について話を聞く機会を得た。座間味同様、奄美の様子も旅日記にしようと考えている。
津田さんは、昨年度から大和市の戦争体験を語る「伝承者」として、登録もされている。当初は「戦争体験者ではないので」と断っていたが、「津田さんのやり方で構わないので」と請われ、それならばと引き受けた。今年は下福田中の3年生に、08年の旅日記を使い、戦争体験を語る授業を行った。生徒たちからは「今まで戦争はこわい、悲しいからあまり知りたくないと思っていましたが、もっと学ぶ必要があるという考えに変わりました」などの感想が寄せられた。「『思いを届ける』『事実を伝える』。この活動だけは、何があっても、何を言われてもやり続けようと思っている。戦争体験者ではない自分の話で『知るきっかけ』にしてもらえれば」。生徒たちの感想に励まされ、『伝え部』としての津田さんの活動は続いていく。
![]() 伝承者の活動で、今年は中学生を相手に話をした
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![]() (右)忠魂碑(左)「集団自決」の場になった壕
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![]() 津田さんの旅日記は完成したものだけで6冊を数える
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