今年の9月28日で「大和」という地名が誕生して130年の節目を迎える。なぜ、もともと地名として縁のない「大和」という名前になったのか。そして名付け親は誰なのか。郷土史家の鎌田幸雄さんに、話を聞いた。
発案したのは当時の内海忠勝県知事とされている。内海県知事が新しく「大和」を命名するに至った理由は、当時の村同士の諍(いさか)いが原因だった。
きっかけは分村問題
江戸時代。現在の大和市域は、下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村、福田村、上和田村、下和田村、長後村、高倉村などの村があった。
明治に入り、新政府が新しい地方制度を導入。1884(明治17)年に、1村に1つだった役場が、複数の町村で1つの役場に統合。大和市域は北部の4村と南部の5村が連合村を作った。
連合村は1889(明治22)年4月の市町村制施行に伴い合併。北部の4村は「下鶴間」の「鶴」と「深見」の「見」を取り「鶴見村」とした。
しかし鶴見村となった4村は、旧下鶴間村と旧深見・上草柳・下草柳の3村との間に、気質や民情の違いに加え、村税の不公平感や役場の位置、学校建設などで意見の対立があり、分村問題が絶えなかった。4村の分裂状態は「大和」の村名に決まる直前まで続いた。
3村は、県に分村を願い出るため、216回の寄り合いを重ね、48回もの陳情を行った。
事態を収拾するため、県は矢野湛第一課長を下鶴間の料亭「松屋」に滞在させ、3村の代表6人と協議。役場の位置、村議会の議席配分、村名の改称を行うことで和解案がまとまった。
名称変更に合意した鶴見村の村会で名称変更が了承されたのを受け、内海知事は「村内の和熟と民福」を願い、村名を「大いに和する」と書いて「大和」とし、9月14日、村会に村名を「大和」とする諮問案を示し、賛同を得て、1891(明治24)年9月28日、改称が決定した。
聖徳太子17条の憲法
分村問題もあり、「大いに和する」と願って内海県知事が命名、と言うのが「大和」誕生の通説といわれている。しかし郷土史家の鎌田幸雄さんは「県知事に『大和』の名を上申した人がいるはず」と話し、2人の名前を挙げる。
その1人が中山毎吉(つねきち)。1868(明治元)年、国分村(今の海老名市)の豪農で資産家の家に生まれた中山は、後に地元の尋常啓蒙小学校の校長などを務めている。
中山が、分村問題で3村が重ねた寄り合いの場である上草柳の善徳寺に顔を出し、聖徳太子の「17条の憲法」の中から、第1条の「和を持って貴しとなす」から「大和(ダイワ)の精神をとって大和としたら」と具申、衆議一決した、との記録が「自治連10年の歩み」に残っている。
善徳寺での会合の記録は、井上孝俊元市長が1989(平成元)年に上梓した「たまゆら」の中にも同寺の16代住職・故柳沢昭栄氏の話として記されている。同書には「鶴見村の紛糾を収拾するため、村内より有力者たちが寄り合うも事態はおさまらず、県知事が調停に乗り出し、村名については「アサヒ」「ヤマト」の2案を提示。当時、既に県下橘樹郡に旭村が存在すること。今後、村内仲良く都の願いから「大いに和する」「大和」を採用と決定」したという。
しかし名士の出であるとはいえ、中山が善徳寺の寄り合いに出席した時は24歳で教師になったばかり。しかも海老名市の人物。会合に自ら参加したとは考えずらく、誰かに招かれて参加した可能性が強い。中山を招いたのは誰か。
ここで出てくるのがもう一人の人物、山口寛一だ。
江戸無血開城に奔走
山口は1836(天保7)年、上草柳村の生まれ。江戸幕府直轄の最高学問所である昌平黌に学び、勝海舟に私淑し「東舟」と号した人物。1857(安政4)年に村に戻り、父の代わりに名主となっていた。
山口は幕末、江戸無血開城のため、勝と西郷隆盛の会談場所を探すために奔走したといわれており、上草柳村の領主で江戸開城に反対し、勝の暗殺計画を企てていた戸田肥後守勝強をいさめたことなどが、泉の森に建つ顕彰碑にも記されている=写真。
1872(明治5)年、明治政府が学制発布後、山口は大和市域を対象とする第19区の「学区取締」の1人に任命される。学区取締は地元の有力者が任じられており、山口も自由民権運動の地域リーダーとして活動しており、次第に鶴見村の分村問題に関わっていく。
=次週に続く
〈参考資料/大和市史3、5、自治連10年の歩み、たまゆら、新編大和の歴史(近代前記)〉
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