徒然想 連載315 花のお寺 常泉寺 住職・青蔭文雄
今月は、己を顧みて己を知れ。たとい学文広くしていかほど物を知りたりとも、己を知らずば、物知りたるにあらず、です。
出典は 江戸代、鈴木正三『盲安杖(もうあんじょう』。
意は、自分のことをよく反省して、本当に自分自身を知ってほしい。たとえ学識が広く、色々な事をよく知っていても、自分が本当にわかっていなければ、物を知っているとは言えない、ということです。
自己の解明はすべての哲学の根底であり、始点です。古代よりインドでは宗教の根本的問題であった。仏教は自己ならざるものを自己とし、それに執着する我見、我執を徹底的に否定する。それが「空」「無我」の教理につながる事になる。一切を否定しきったところに智慧の完成を得て、再び自己および一切のものがはっきりと如実に見えてくる、というのが「般若経」の教義で、「本来の自己に目覚めよ」と修行者を激励するのです。
禅を極めた方の教えもこの同軸上にあり、仏教では知識や分別だけを嫌う。それは、本来の自由な心の働きを妨げるからです。智慧の完成によってこれを除くことが悟りへの道と言われている。
江戸の名僧、白隠は「唐や大和の物知りよりも、主人定まる人が良い」と歌っています。
桃蹊庵主 合掌