「鎌倉殿の13人」に綾(あや)なす歴史話
綾瀬と鎌倉殿
綾瀬の地名と渋谷一族
古代において、出自や経済的基盤を同じくする集団の称号として「氏(うじ)」が使われました。平安時代中期以降になると土地の所有や家の独立性を主張するために同一の氏から分かれ、自らの領地の地名を「名字」として名乗るようになりました。
桓武平氏の流れを組む武士団も、領した地名から「渋谷」や「畠山」などと名乗りました。渋谷荘内では『入来院家文書』の記録から、渋谷重国の長男・太郎光重の子の「早川」二郎実重、「吉岡」三郎重保、「大谷」四郎重諸(茂)、「曾司」五郎定心、「落合」六郎重貞が名乗りに地名を使用していることがみてとれます(※注1)。大谷は現在の海老名市大谷周辺であり、曾司は同音の地名(祖師)が綾瀬市の長泉寺周辺にみられます。目久尻川流域の地名が目立ちますが「渋谷定心置文」でも、早川の五所宮(五社神社)について言及があること、流域に宮久保遺跡など中世の遺跡が集まることから、目久尻川流域は渋谷重国の一族にとって重要な場所だったと考えられます。実重らは、渋谷荘から薩摩国へ下向後、新たに所領となった入来院(いりきいん)や東郷(とうごう)、祁答院(けどういん)といった地名を名字に名乗るようになります。
また「渋谷定心譲状案」(1246年)に「相模国吉田上庄内寺尾村」の記載があり、定心の子・重経に寺尾村が譲られたことが分かります。重経の一族はこの後寺尾を本拠地とし「寺尾氏」を称します。これらのことから、土地と領主が強く結びついており、所領の中でも特に拠点が設けられた場所や重要視していた場所を名字としたことが分かります。名字からは当時の地名や人々の動向を伺うことができます。※1系図上で号として使用(『綾瀬市史6』P169)。
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