シリーズ 戦後70年 第4回 語り継ぐ「記録と記憶」 座間の未来変えた、陸軍士官学校
キャンプ座間の県道町田厚木線(行幸道路)を挟んで向かいに位置する「富士山(ふじやま)公園」。園道を登って行った頂点に、真ん中が円状に凹んだ巨石がある。これは戦中、同地区にあった軍事施設「陸軍士官学校」の生徒が、皇居などを拝む時に使用していた「方位盤」。太平洋戦争の終結とともに無くなった士官学校の存在を、今に伝えている。
相武台前駅北口から行幸道路を南に進むと、右手に見えてくるキャンプ座間。正門には専用ゲートが設けられ、米軍関係者や警察官が立っている。今でこそ見慣れた風景だが、70数年前、この場所には陸軍の幹部を養成する学校があった。
士官学校が東京市ヶ谷から移転してきたのは1937年。市教育委員会が発行する「座間の語り伝え=外編1・軍事施設の進出=」によると、移転先の条件として陸軍が挙げていたのが「【1】行幸を仰ぐのに便利な事」「【2】富士山を眺め得る」「【3】用水など生活に必要な物が十分」「【4】予算限度額275万円」の4点。座間は【2】を除く条件については十分に満たしており、複数の候補地から選ばれた。
突然の話に、土地を所有する座間村や麻溝村などの農民は混乱した。農家にとって土地を失うことは死活問題だったからだ。土地買収に伴う価格交渉に加え、失業対策に絡んで地主と小作人の対立も深刻化し、同冊子には地主が自殺したという記述も残っている。
開校、そして接収
開校に合わせ、小田急線座間駅(現在の相武台前駅)は「士官学校前駅」と改称された。入校式は1937年9月30日に執り行われ、約1300人が駅前から行幸道路を経て入校した。
生徒たちの日課が、毎朝の遥拝だった。遥拝所は校内で最も重要な場所とされ、方位盤には、皇居や明治神宮に加え国内の地名も記されていた。自分の故郷や原隊の方角を知るためだという。また、当時は、東南アジア諸国から軍事留学のために訪れていた人もおり、中国や朝鮮半島の主要都市も記されていた。
終戦に伴い、国内の軍事施設は接収。士官学校の用地も米陸軍が進駐し、1950年には「キャンプ座間」と呼ばれるようになった。
キャンプ座間には現在、在日米陸軍司令部があり、陸上自衛隊も敷地内に駐屯している。返還予定地では総合病院や市消防本部新庁舎の開設計画も進む。士官学校が存在したのは10年に満たない期間だったが、その建設は座間の未来を大きく変えた出来事だったと言えるかもしれない。
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