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厚木・愛川・清川

公開日:2013.05.24

老人が語る「あの日」と今
石巻市・相川地区訪問記【2】

  • 旧相川小学校の校舎

 東日本大震災以降交流を続けていた厚木と石巻、2つの「相川小学校」。石巻の相川小が近隣校と統合されてできた北上小学校を後にした私は、海沿いにある旧相川小へ向かった。〈小宮 浩義〉



 ベランダの柵が折れ曲がり、窓のない教室。屋根がグチャグチャになった体育館。目の前の校舎は、北上小で見た震災翌日の写真と何一つ変わっていなかった。



 衝撃で体が動かず、10分くらい経って意を決して車を降りた。校舎の隣で、畑仕事をしていた一人の男性を見つけ、声をかけた。



 70歳代だという元漁師の老人は、元々学校の隣に住んでいた。自分も相川小出身で、歴代の校長とは良き話し相手だった。



 「あの日、校長先生はとっさに『山へ逃げろ!』と言ったんだ」。市教委の研修では、津波の際は屋上に避難する訓練をしていた。迫りくる津波を見ての、とっさの判断。児童たちと共に学校の裏山を駆け上り、のちに避難所となる高台の子育て支援センターを目指した。津波は、学校の屋上まで達していた。



 当時学校にいた児童、教師は無事だったが、下校していた児童1人はいまだ行方不明となっている。



 雑草が生い茂り、児童の声が聞こえなくなった校舎。その横には閉校時に建てた記念碑がある。「さびしいねぇ」と老人。



 被災後、一度は息子の住む仙台へ移ったが、3日で「オラにゃダメだ」と相川に戻った。



 学校近くの仮設住宅は「隣りのいびきが聞こえて、電気を消しても明かりが漏れる」。「続けないと体を壊しちゃう」と自宅の跡に作った畑ではネギやジャガイモ、玉ネギを栽培。「仮設の皆が『今度ネギちょうだい』って言うんだ」と笑う。



 「高台移転もしたいけど、世帯が少ないと自己負担がかかる。高齢者には厳しい。昔は息子2人にも『家』とか残すものがあった。今は借金を残さないようにしなきゃ」。そう言って、老人は去っていった。



 どこまでも続く護岸工事と「東日本大震災復旧事業」の看板、そして雄大な北上川。帰路につく私の前を、一羽のイヌワシが悠然と横切った。     (おわり)

 

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