84歳。還暦以上の選手からなる「横須賀シニア」の最年長メンバーで、在籍23年目の大ベテランだ。週2回程度の練習や試合には欠かさず参加し「ここ20年で休んだのは片手で数えるほど」。背筋をぴんと伸ばし打席に立つ姿は、まさに「現役」だ。
続ける理由は「好き」。それだけ
「横須賀シニア」ができるきっかけとなったのは本田さんが61歳の時。高齢者のスポーツ・文化の祭典「ねんりんピック」に野球種目で出場しようと、メンバーが集まったのがはじまりだ。「創設メンバーの12人は、亡くなったり病気になったりで気づけば俺だけになっちゃったよ」と笑い飛ばす。
チームの平均年齢は71歳。息子ほど年齢の離れた選手もいる中で、仲間たちから「じぃじ」「おやじ」と呼ばれ愛されている。創設当時は投手やサードを任され、打撃の中軸を担っていた。現在は代打専門。練習では、打撃練習もかねてチームメイトにノックしている。その成果もあってか「守備の間を抜くバットコントロールは錆びていない」と胸を張る。
野球しか知らない人生
始めたのは小学6年生の時。「近所の空き地で手作りのバットとボールでやっていたのが懐しい」。海軍航空隊のある追浜で生まれ育ち、1944年に「予科練」に入りたいと、当時横須賀で唯一、航空機科があった市立工業高校に入学。戦時中の苦しい毎日の中での楽しみは、やはり野球だった。同年、政府の意向で野球が禁止されていた時期もあったが「空襲のサイレンで皆が防空壕の中に入っているときに、こっそり先生と体育館でキャッチボールしていた」と当時を懐かしむ。それくらい好きだった。高校卒業後も米軍基地で働きながら野球漬けの日々。現在まで変わらず”現役”だ。振り返ると「野球しか知らない人生」と幸せそうな笑みを見せた。
家族は妻と娘3人。親の影響もあってか、娘はソフトボールに熱中した。「自転車に乗ってランニングに付き合ったのをよく覚えているよ」
視力を失った右目
2011年、大会でファーストを守っていた時、いきなり視界の半分が暗くなり、その場にしゃがみ込んでしまった。すぐに病院に向かったが、すでに右目はほとんど失明に近い状態。医者から「網膜静脈閉塞症」と診断された。それでも「片目でもやってやろう」と、手術を受けた後すぐに練習を再開。右目が見えなくなって以降、守備は難しくなったが「長年の経験からか、バッティングは大丈夫だった。野球歴70年は伊達じゃないね」。バットをボールに当てる感覚は眼だけでなく体にも染みついていた。右目の視力を失ってもノックを続ける姿に「チームメイトが驚いていた」と嬉しそうに話す。
守備やランニングなどできないことも増えてきたが「グラウンドでプレーすることだけがすべてではない」と切り替えている。チームの方針など、メンバー内で衝突が起きた時には、緩衝剤の役割も果たす。「最年長の自分がなだめることで、その場を収めることができる」。全員が年下だからこそ「じぃじが言うなら」とチームメイトも納得してくれるという。
米寿まで続けたい
元気の秘訣はズバリ食事。肉が大好きで、中でもとんかつには目がない。「遠征の時には、仲間ととんかつ屋を探すのが決まりのようになっている」という言葉に、84歳であることを忘れさせる。
4月の取材時には、「80歳以上のメンバーで作る傘寿チームを作りたい」と話していた目標も達成。今は米寿(88歳)までユニフォームを着ることを目指している「現役を退いてもグラウンドには足を運ぶつもり」。そう考えるのは、長年共にプレーしてきた仲間の存在があるから。「死ぬまでチームを見守りたいね」と冗談交じりに話した。
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