50mを6・0秒で駆け抜ける俊足の外野手だった。主力の3年生が抜けレギュラー争いが激しくなり始めたころ、不運にも交通事故に遭い利き手を負傷。約半年間、ボールもバットも握ることができないもどかしい日々が続いた。大好きな野球ができない―。退部も考えたが、毎日のように見舞いに来てくれる仲間の優しさにも支えられ、苦しい時間を耐え抜いた。
ケガで遅れたことも影響してか、控えに回ることが多くなった。最後の夏もベンチから敗戦を見届けた。が、悔しかったのはレギュラーになれなかったことではなく、厳しい練習をともに乗り越えてきた仲間と野球ができなくなることだった。「つらいけど楽しい毎日。自然に耐える力が付いたと思う」と振り返る。
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気象予報士を志したのはファミレスでアルバイトをしていた21歳の時。長く勤める中で食材の発注を任されるようになった。「天気によって客足が3倍も変わる店舗で。予報が外れると食材が余ったり足りなくなったり」。天気予報に頼らず自分で予測できたら―。中途半端なフリーター生活から脱したいという思いもあり、一念発起。資格の勉強を開始した。
いざ問題集を開いてみると、文章の意味すら分からず。「普通だったらそこで諦めていた」が、高校時代、けがを乗り越え、厳しい練習に耐えた津浜野球部での経験が自信となり背中を押した。できない分野を遡り小4の内容から復習。まさに一からのスタートだった。そして27歳の時、7回目の受験でようやく合格にたどり着いた。
野球部の顧問が、かけてくれたある言葉が現在も記憶に残っている。「今は補欠でも、長い人生の中でレギュラーになればいい」―。あれから25年。朝の情報番組の気象予報士として、14年間レギュラー出演し続けている。
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