月曜日の早朝3時、いつもの軽妙な語り口で番組をスタート。ニッポン放送に入社以来、スポーツ実況の現場からオールナイトニッポン、そして朝の帯番組と声を届け続けてきたフリーアナウンサーの高嶋秀武さん(77)。「しゃべる機会がある限り、マイクを持ち続けたい」―。夢のある仕事として小学生の頃に志したアナウンサー。来年には「マイク生活55周年」を迎える。今秋からは週末に「ニュースバラエティ」を担当。「恥ずかしがらずに、昔話も交えて話していきたい」と語る。
声張れる限り「一生現役」
「ラジオ」の世界を知ったのは小学4年生頃。戦争から復員した父親が自宅でずっと聞いていたのが真空管ラジオ。野球や相撲中継など、声が織りなす臨場感に心が躍った。叔父がNHKに務めていたことから、公開放送の会場にも通い詰めた。現場を間近で見て「ああいう仕事をしたい」と思い描くように。父親からある日こう言われた。「(アナウンサーとは)針が落ちても響くような静かな部屋で発する自分の声が、行ったことのない場所に居る人に向けて届けること」と。そこに夢を感じた少年は、早くして自分の進路を決めた。
横須賀高校から明治大学に進学し、放送研究会に所属。一つずつ夢への階段を上っていたが、「姉の進学を諦めさせて大学に行って、アナウンサーになれなかったら」と思い詰める日々。今考えると「暗い青年だった」。就職試験前に「平坂書房で『楽天家になる秘訣』という本を買ってページが黒くなるまで読んでいた」と笑う。
実況から深夜番組へ
そうして迎えたアナウンサーの採用試験でニッポン放送に合格。「その時の電報は今でも大切に取ってある。宝物であり原点。辛いときに眺めて励みにしている」。憧れの現場で1年目はニュースやナレーション、2年目からはスポーツを任された。
当時、中継などの仕事を終えて不入斗の自宅に帰ると、時間は深夜。ラジオから流れてくるのが、ちょうどその頃始まった「オールナイトニッポン」だった。「これはおもしろい。個人の力量で話せる」。編成局長に直訴し、野球のオフシーズンに担当することになった。アナウンサーDJの先駆けと言われた時代。「見たものを自分のボキャブラリーで表現する実況も楽しい」が、かつて父親が話していた「見たことも・行ったこともない場所に住む人に声を届けている」―という一体感と醍醐味。それを実感させてくれたのは、番組に寄せられる1万通もの「ハガキ」だったという。
時代感覚忘れずに
その後、朝の帯番組を長く担当。1990年に同社を退社し、フリーに。マイクを持つ中で変わらないのは「ラジオは歯切れの良さや明瞭さが大切」という話し手としての矜持。そして「時代感覚を忘れないこと」と語る。「分からないことを聞くのは恥ずかしくない」。知ることに貪欲な姿勢を持ち、自ら輪に入っていくことが時代変化に対応していく秘訣だと話す。
「健気な現役への欲求も悪くないな」。マイクを持って半世紀。意欲と好奇心を下敷きに”声”を伝え続けていく。
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