横須賀と福島県会津地方の関わりは今から800年以上前の鎌倉時代、三浦大介義明の息子が源頼朝から合戦の褒美として会津4群を与えられたことが始まりだ。江戸時代には、幕府から浦賀の警備を命じられた会津藩士約1600人が相模国に陣屋や藩校を構え、横須賀で生涯を閉じた藩士やその家族87基の墓が今も市内周辺に残る――。
こうした歴史的背景を伝える市民団体「三浦半島会津藩士顕彰会」と「湘南海援隊」は先月27日、鶴ヶ城(会津若松城)が開城した9月22日に合わせ、会津藩士ゆかりの地を巡る散策ツアーを横須賀東エリアで開催した。会津若松市出身の本紙記者も同行し、横須賀と会津の深いつながりを探った。
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集合場所の浦賀駅には老若男女34人が集まった。西叶神社で自己紹介とルート確認後、東福寺の裏山にある墓所へ。この地に眠るのは戊辰戦争を経験し、明治以降、浦賀で商人や議員などとして活躍した旧会津藩士たち。石に刻まれている「穴澤家(アナザワケ)」「鹿目家(カノメケ)」などの苗字は会津特有らしく、記者も学生時代に同じ姓の友人がいたことを思い出した。野比にある「鹿目茶舗」という店もその名残という。
次に一行は、浦賀の渡し舟に乗り、東叶神社へと向かった。ここで市内各地で歴史トークを行う辻本典子さんが、初代会津藩主・保科正之について講演。「水戸黄門」でお馴染みの水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び”江戸初期の三名君”として名を馳せた人物であることを力説した。また、境内裏山には浦賀城址があり、ペリー来航時に住民はここから黒船を眺めたという。
いよいよ終盤、鴨居八幡神社で湘南海援隊の齋藤秀一代表が”(幕府が)困った時の会津藩”をテーマに、江戸を守る重要な役割を果たした藩士について説いた後、鴨居にある西徳寺と腰越墓地へ。ここには、浦賀湾を警備した10年の間に亡くなった会津藩士の墓が建つ。1968年までその存在は知られることなく無縁仏となっていたが、三浦半島会津藩士顕彰会初期メンバーの故・星正夫さんが、手弁当で寺院の過去帳を照らし合わせ、家族関係を記録。現在、腰越墓地は市指定史跡となっている。横浜市から参加した井草真知さんの先祖・松永家の墓もあった。30年前に母親が偶然この地を訪れた際、発見したという。「私が今生きているのは、200年程前の先祖のおかげだと思うと感慨深い」と語った。
最終地の観音崎公園に無事到着。会津人の私には興味深かったツアー。三浦半島には他にも会津にまつわる遺構があるというのでまた訪ねてみたい。
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