"海の隼"をあるく 〜按針が見たニッポン〜12 浦賀編(3)作・藤野浩章
浦賀から江戸城まではおよそ80キロ。これを徒歩で、しかも大砲や食料などを満載して二百人で踏破するなんてとても想像できない。海路なら1日もあれば到着するだろうが、リーフデ号が損傷していたことに加え、大切な積み荷を海没させようものなら「腹を幾(いく)つ切っても済むものではない」という判断だった。
では一体どんなルートだったのだろうか。本書には「浦賀道を辿(たど)って大津、汐入、十三峠(じゅうさんとうげ)、金沢に至り、保土ヶ谷で東海道に合流、江戸へゆく」とある。さすがに全部は大変だから、せめて三浦半島だけでも実際に歩いてみることにした。
しかし最初にぶち当たったのは、意外にも出発点だった。そもそもリーフデ号は浦賀のどこに着いたのだろうか。浦賀奉行所が開設されたのは百年以上後なので、西浦賀は考えにくい。浦賀駅を出発点にするのも現実的ではないだろう。
どうやら、後年始まった国際貿易港は東浦賀が拠点になっていたようだ。後に干鰯(ほしか)問屋が立ち並ぶのもここで、現在の「浦賀の渡し」の東乗り場辺りが船の拠点になっていたのだろう。そう考えると、小さな漁村にいきなりリーフデ号が現れた当時は、庶民にとっては黒船来航を凌(しの)ぐ大事件だったに違いない。
とりあえず東叶(ひがしかのう)神社をスタート地点として訪れると、鳥居のそばにはここが日本とスペインとの国際貿易港であったことを記す碑があり、アダムスが幕府の外交で大きな役割を果たしたことが書かれている。四百年前の彼に教えてあげたいくらいだが、まずはその碑文に励まされて、歩みを進めることにしよう。
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