"海の隼"をあるく 〜按針が見たニッポン〜39 駿府編(3)作・藤野浩章
「それは、むろん浦賀でございましょう」(第七章)
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日本の「開国」と言えばほとんどの人が幕末を思い浮かべるだろうが、実は江戸時代の初め頃が、隠れた山場の一つだった。
その頃は西国大名を中心にポルトガルとの交易が盛んに行われていたが、幕末から遡(さかのぼ)ること260年、幕府として手を組んだのはオランダだった。按針にとって、リーフデ号に乗って日本を目指した当初の目的を、ついに実現させたのだ。
その貿易の中心地は浦賀。今後巨大な消費地となる江戸に近く、良い港であるうえに、逸見(へみ)に領地を持つ按針にとっても都合が良い。この地にオランダ商館を設置することは家康も強く推していたことだった。そうすれば日蘭交易を幕府が独占できるうえに、予断を許さない西の大名の牽制にもなる。
ところが、初代オランダ商館長・スペックスの回答は「商館の本拠は平戸へ置き、浦賀には支店を設ける」というものだった。中国やアジア諸国と行き来するには浦賀は遠く、輸出入の拠点は平戸にし、浦賀は販売の窓口とするのが最適だというのだ。しかも家康と按針の不興を知ってか、すぐ按針に浦賀支店長を要請する念の入れようだ。「スペックスの術中にはめられたか・・・」というセリフが、彼の正直な気持ちだったろう。そして肝心な家康は、オランダに"日本中どこの港でも"貿易を許した手前、渋々これを認めざるをえなかったのだ。
しかしこの話には裏があった。陰でオランダの糸を引いていたのは、平戸藩の松浦鎮信(まつらしげのぶ)だった。
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