OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第5回 駿河台編【3】文・写真 藤野浩章
9歳で入門した安積(あさか)艮斎(ごんさい)の塾では、特に目立つ存在ではなく、ひたすら黙って聞いていたという小栗。しかしガキ大将で意地っ張りという面もあったようで、周りからは「頑童(がんどう)」として恐れられていたらしい。
一方で詩文や酒には興味を示さない堅物で「冷腸漢(れいちょうかん)」・・・つまり冷たいヤツ、という評価もあったとか。しかし書画には興味があり、特に名声ばかりの骨董ではなく、著名な書家に実際に描かせた絵を大事にしていたという。自分が実際に見て考えたものを信じる、という"徹底した現実主義者"──これが彼の第3のキーワードだ。
そして当時からの愛用品は煙草。「十五歳のころから吸っているので、堂に入った所作である」(第一章)とあるように、考えを巡らせて一気にたたみかける時の必須アイテムだったようだ。
当時日本最高の教育機関であった昌平黌(しょうへいこう)の教授になった艮斎は、外国との交易を活発にし、その利益で海防を充実させることが重要と考え「外交中庸(ちゅうよう)」を唱えた。
小栗はこうした先進的な考えを幼い頃から徹底して学んでいたうえに、煙草をくゆらせながら堂々と意見を述べ、頑固で、しかも考えは極めて現実的──という人となりもあって、周囲との意見の衝突は多かった。しかも外国を追い払う「攘夷(じょうい)」の考えが日本中を覆っていた当時だから、なおさらだろう。「和を乱す一刻者(いっこくもの)よ短気者よとそしり、更には狂人とか"天狗のじゃんこ"(あばた)と陰口」(第二章)を叩かれることもしばしばだったようだ。
そんな彼とは対照的な歩みをしていくのが、本書で何度も登場するライバル・勝麟太郎(かつりんたろう)だった。
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