OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第17回 アメリカ編【1】文・写真 藤野浩章
小栗にとって大きな転機となったアメリカとの出会い。本書から少し離れて、その経緯を追ってみることにする。
ペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀に来航したのは、西暦1853年7月8日。幕府は久里浜に上陸させ、開国を迫る大統領の国書を受け取ることになる。──誰もが知るこの出来事だが、実は日本の存亡の危機とも言える状況を招いていた。
米墨(べいぼく)戦争でカリフォルニアを手に入れたアメリカは、ついに太平洋に道が開けることになった。こうなると当時欧米諸国が競って行っていたクジラの乱獲競争が激化。その補給基地として日本を重要視することになる。
一方、ペリーがいきなり江戸湾へ入った事に衝撃を受けたのがイギリス、フランス、ロシア。各国はアメリカに反発するとともに、遅れまいと積極的に日本への接近を図ることになる。言ってみれば、ペリーの強引な来航が、アジアでの覇権争いの引き金を引いてしまった、とも言えるのだ。
しかし、ペリーが帰国すると、大統領選挙で民主党のピアスが当選して政権が変わるという波乱が起こり、国内世論がペリーの手法に批判的になっていく。追い詰められた彼は予定を大幅に早め、今度は7隻の艦隊で翌年1月13日に再来日する。慌てた幕府は横浜への上陸を認め、老中・阿部正弘はついに日米和親条約を締結。この条約によって総領事となったハリスは、続いて幕府に通商条約の締結を迫り、1858年、日米修好通商条約が結ばれたのだ。
後に国内外で重い課題となるこの条約の批准(ひじゅん)書を交換するために行われたのが遣米(けんべい)使節だ。小栗忠順(ただまさ)34歳。外交デビューの場が、突然訪れた。
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