OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第19回 アメリカ編【3】文・写真 藤野浩章
アメリカへの海路は、実に過酷だった。
太平洋を渡る航海技術を日本人は身につけていなかったために米海軍の水兵が乗り込んでいたが、結局のところ、操船はほぼ米軍が行っていたという。咸臨(かんりん)丸に乗ったブルック大尉の日記によれば「日本人は全員船酔い」。37日間の航海のうち6日ほどしか晴れなかった、という過酷な航海で、特に艦長の勝海舟(かつかいしゅう)はほぼ船室から出てこなかったという話は有名だ。それもそのはず、米海軍でも経験したことがないほどの猛烈な時化(しけ)が続き、全滅の可能性すらあったのだ。一刻も早く船を降りたいと日本人の誰もが願う中で、幕府の「異国船打払(うちはらい)令」はあまりにもひどい仕打ちだ、と身にしみて思ったという。
さて、この咸臨丸には後に勝を痛烈に批判することになる福沢諭吉(ゆきち)や、通訳でジョン万次郎(まんじろう)も乗っていた。彼はペリー来航時にも通訳を担当する予定だったが、米国のスパイではないかと疑われて叶わず、今回は満を持しての渡米だった。
スパイと言えば、小栗も米国側からスパイではないかと疑われた。「目付(めつけ)」という旧来の役職が"スパイ"と翻訳されたのだ。「監察」と言い換えて誤解は解けたが、小栗は渡米前、実にスパイさながらの調査をしていた。彼は前年からブルック大尉と頻繁に会うなどして、太平洋航路はもちろん米国の地理、気候、習慣などを事細かに調べ上げていたという。航海中はご多分に漏れず船酔いに苦しめられたというが、好奇心旺盛で責任感あふれるこの準備はこの後、存分に発揮されることになる。
苦難の航海の末、一行はようやく北米大陸に到達する。
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