OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第24回 江戸編【2】文・写真 藤野浩章
「自ら首をしめるような真似、絶対にすべきではありませぬ」(第二章)
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使節団が帰国して2年。開港による物資不足と貨幣の改鋳(かいちゅう)により、急激なインフレが進んでいた。加えて井伊直弼(なおすけ)の暗殺で幕府の権威は失墜。改革が急がれていた。
そんな時に動いたのが、薩摩の島津久光(ひさみつ)だった。彼は朝廷や公家と示し合わせて改革案を突きつけ、兵を率いて江戸へやって来る。政治を任されている幕府に対して事実上朝廷が指示を下す形式も異例なら、藩主でもない(藩主・忠義(ただよし)の父)彼が兵を率いて江戸に圧力をかけるのも言語道断の事態。しかし幕府にはそれを押し返す力が残っておらず、しぶしぶ人事と制度の改革を受け入れる(文久の改革)。
この渦中に勘定奉行勝手方(かってがた)に抜擢されたのが小栗だった。困ったときの小栗、ということなのだろうが、彼はさっそく冒頭のように直言する。
小栗は久光の真意を読んでいた。改革の必要性はもちろんあるが、その主体は幕府であるべき。もし受け入れてしまえば幕府は何もできなくなることは明白で、久光は幕閣に入り公武合体(こうぶがったい)の政治をしたいだけなのだ...。
この経緯は本書に詳しいが、結果として新人事は久光と徳川慶喜(よしのぶ)、松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))の意見が対立。朝廷は今までできなかった政治的な動きを強めることになった。しかも久光の動きが誤解され「尊皇攘夷」に「幕府打倒」という考えが加わり、小栗の懸念が現実のものとなってしまう。
さらに久光が帰国する際に事件が起こる。行列に行き会ったイギリス人を、あろうことか薩摩藩士が斬りつけたのだ。生麦事件である。
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