OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第25回 江戸編【3】文・写真 藤野浩章
「それは、筋ちがいではありませぬか」(二章)
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横浜・生麦村で薩摩へ帰る途中の島津久光一行がイギリス人を殺傷した事件は、まさに「厄介(やっかい)な置土産」になった。
激怒したイギリスは、代理公使であるニールを通じ、幕府には陳謝と10万ポンドの賠償金を、薩摩には犯人引渡しと2万5千ポンドの賠償金を要求してきた。
この10万ポンドとは、本書では「30万両」に相当するとあるが、いったい現在どのくらいの価値なのだろうか。
幕末の貨幣価値を特定するのはとても難しく、貨幣の改鋳(かいちゅう)やインフレで毎年のように価値が違う時代だった。もし現代なら、それによって経済は混乱して毎年内閣が倒れていただろう。そこで、幕府の記録から庶民の日記まで、さまざまな資料を調査しておおよそを推測する作業が必要になってくるのだ。とある研究を見てみると、万延(まんえん)元(1860)年の1両が現代の14880円と算出されている。これを基にすれば、10万両=15億円弱ということになる。同じく薩摩の賠償額は3億7千万だ。
慢性的な財政難にあえぐ幕府にこの金を工面できるあてはなく、有力商人の財力に頼るしかない。そこで抜擢(ばってき)されたのが、またもや小栗だった。今度は南町(みなみまち)奉行に任命したのだ。富商(ふしょう)からの賠償金調達、という使命だ。彼は極めて憤(ふん)まんやる方(かた)なかっただろう。薩摩もイギリスも、何より幕府も、誰もが「筋違い」に思えたに違いない。
今までなら、彼はこんな理不尽な戦後処理を前に辞めていたかもしれない。しかし今回は違った。珍しく、静観を決め込んだのである。
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