OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第27回 江戸編【5】文・写真 藤野浩章
「ここはやはり姑息(こそく)な手段によらず、破約と攘夷(じょうい)の考えが如何(いか)に誤ったものであるかを朝廷に説くのが、正しい道であると存ずる」(第二章)
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生麦事件を原因として、薩摩とイギリスが交戦する事態となり、その結果、攘夷から倒幕へと転換していく――これが、幕府崩壊へ向かう時期の一般的な解釈だろう。
しかし、事はそんなに単純ではない。ここからわずか1年足らずの間に、幕府はもちろん朝廷、薩摩、さらには長州藩も含めて実に激しい動きがあり、実はその過程では、幕府が復権できる最後のチャンスがあった。
その渦中で闘い、もがいていたのが小栗上野介だった。教科書ではほとんど省略されてしまう事だが、その経緯を、本書の解釈に沿って少しの間たどっていきたい。
生麦事件の後処理で、勝海舟(かつかいしゅう)は条約を結んだ7国のうち4国とは破棄し、その代わりに米英蘭の3国は継続して味方に引き入れ"防波堤"とするという案を出す。一方、小栗は「アロー号事件」を引き合いに出し、そのような考えは甘く、あくまで賠償金の全額を薩摩に支払わせ、日本唯一の政府である幕府が結んだ条約は破棄せずに開港、交易の道を進むべきだと主張した。冒頭の言葉は勝の案に対するセリフだ。これを勝は「お得意の正論」として一蹴する。
外国の侵略で日本も清国のようになりかねない。しかし、もし強力な海軍力を持っていれば、と両者は思っただろうが、現実はほど遠い。
「この際だから申し上げますが、あの計画、十年はおろか五百年はかかりましょうな」。計画とは、小栗が構想する海軍拡張案のことである。
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