OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第30回 横須賀編【1】文・写真 藤野浩章
「二十日とは、なんともはや・・・」(第三章)
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小栗忠順(ただまさ)は、なぜ"自前"での造船所づくりに力を注いだのか。
自らパワーを持つことが外交交渉で有利になることはもちろん、何よりすべての軍艦を外国から購入していた幕府は、度重なる修繕を製造国に依存し、莫大な予算を使っていた。この「コスパの悪さ」を勘定奉行として熟知していたのだ。
さらに1863(文久2)年は、攘夷(じょうい)の動きがピークを迎えた年だった。
帝(みかど)による攘夷命令の実行日であった5月10日を、幕府は賠償金の支払いという穏便な方法で何とか回避したと思ったら、翌日に長州藩が暴走する。外国商船を砲撃し、武力で攘夷を始めたのである。いわゆる下関戦争だ。
この動きを見て小栗は朝廷と攘夷派への圧力策を5月下旬に提案するが、頓挫する(第29回参照)。
一方、生麦事件の犯人引渡しを拒否した薩摩とイギリスが7月2日、ついに武力衝突に至る。薩英(さつえい)戦争だ。
この直後の7月22日、小栗は陸軍奉行並に任命されているが、わずか20日で辞職している。その時の妻・道子のセリフが冒頭のものだ。実際、本書の通り薩英戦争の事で頭が一杯だったろう。
しかも死傷者は十数名だけで、実質的に薩摩勝利とも言える戦果だったのだから、なおさらだ。近代兵器の威力を知った薩摩と、彼らの力を認めたイギリスはこの後急接近していく。
「薩摩恐るべし」。小栗は、近く薩摩藩と直接対決する日が来ると警戒するようになる。造船所と海軍力の増強は、反幕府勢力に対抗するためにも、必要だったのだ。
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