OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第31回 横須賀編【2】文・写真 藤野浩章
「幕府が、そっくり京へ移ったようなものではないか」(第四章)
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1864(文久4)年になっても、政治の混乱は続いていた。京では一橋慶喜を中心とした主導権争いが激化し、そのスタンドプレーに幕閣は翻弄(ほんろう)されていた。
本書では、遠く離れた江戸にいた小栗は「かえって実態が把(つか)める」としながらも「この重大な時期に、なぜ身内争いなどしているのか」と焦る様子が描かれている。そう、彼はこの時無役だったのだ。
そんな中、7月には攘夷過激派を新撰組が急襲する池田屋事件が起こり、攘夷運動が再燃する。さらにその報復として長州勢が京を攻撃。蛤御門(はまぐりごもん)(禁門)の変だ。孝明(こうめい)天皇は激怒し「朝敵」として長州征討(せいとう)が発せられることになる。
その直後、小栗は3度目の勘定奉行勝手方を命じられる。大坂夏の陣以来という大動員に当たり、その計画と資金繰りを任せられたのだ。まさに"困った時の小栗"というわけだ。
時にはありがた迷惑という事もあったが、しかし本書では今回ばかりは本人が切望していたという説をとっている。それは彼が、自他ともに認める大規模な兵力動員計画立案の第一人者であったことに加え、薩摩や長州の増長を目の当たりにして、幕府自前の造船所づくりを急ぎたいという思いも大きかった。そしてもう1つ、将軍家茂(いえもち)に直訴して神戸に「海軍操練所」の設立を認めさせたという勝海舟(かつかいしゅう)の存在も彼の原動力になったとしているのが興味深い。
ライバルが動けば、味方も現れる。この後、彼の力となる2人の重要人物がついに登場する。
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