OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第32回 横須賀編【3】文・写真 藤野浩章
「どうせなら、六十間(けん)か七十間の船渠(せんきょ)を二基、船台も同様なものを三つは欲しい。つまり三千トン級の船を造り、修理できるほどのものをの」(第四章)
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関ヶ原以来の大動員という長州征討(せいとう)の戦費は総額二百万両にもなった。この頃の貨幣価値は急激なインフレで換算し難いが、仮に一両十万円とすると現在の二千億円という巨額だ。幕府の収入が百万両だというから、残りはまたもや全国の富商や豪農などからかき集めることになる。
実はこの時、その一つの三井は経営危機に陥っていたが、結果的に小栗によって救われている。これが後に小栗家の運命に大きな影響を与えることになる。
そしてこの大規模な動員計画作成にあたって彼の片腕となったのが、小野友五郎(ともごろう)だ。彼は当時46歳と小栗より8歳ほど年上。咸臨(かんりん)丸で渡米した際に実質的に航海を取り仕切る腕を持ち、頭脳明晰(めいせき)。叩き上げで勘定組頭になった猛者(もさ)だった。
二人は、幕府が軍艦の購入でいかに外国から高い船を買い、大量の金銀が流出しているかを話すが、その時小栗は、小野がかつて海軍にいた頃、江戸湾口に造船所を設けるなどの提言を「江都(こうと)海防真論」にまとめ、建議していたことを知る。
それによると、建設候補地は三浦半島横須賀村の「貉ヶ谷(むじながや)湾」一帯。造船用と修理用で各一基の設備をつくるべきとしていた。小栗は喜び、自らの案を披露する。それが冒頭の大規模設備案だ。
計画は一気に動き出す。資金の捻出に加え、どの国に技術指導を受けるか?が最初のハードルだ。小栗は、もう一人のキーマンの元へ向かう。
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