「激しい下痢に襲われ、患者の糞尿はたれ流し、夜が明ける頃には重度の脱水症状で骨と皮だけになって横たわっている。とても見ていられなかった」。”コレラ船”と呼ばれた外地からの引揚船内で検疫にあたっていた小見山茂人さん(98)は、同胞たちの変わり果てた姿に愕然とした。戦後、軍人や民間人の「引揚事業」として、中国大陸や東南アジアなどから邦人約56万人を受け入れてきた浦賀港。しかし終戦の翌年、広東からの船内で疫病・コレラが発生。内地への上陸を防ぐため、徹底した水際作戦が敢行された。
海軍医だった小見山さんは昭和21年、旧海軍対潜学校(長瀬)に設けられた検疫所に検疫官として赴任。小型舟艇で引揚船に向かい、船内で検便作業に従事した。1人でも罹患していれば、米軍の規定でその船は14日間停留しなければならない。当時の関係者がまとめた「浦賀港引揚船関連体験集」によると、ピーク時は20数隻、10万人以上の帰還者が船内に閉じ込められたという。深刻な食料不足で、栄養失調や他の病気で亡くなった人も大勢いた。中には「発覚すると復員が遅れるから」と上官に命令され、嘘の報告をした船医もいたという。「すぐそこは祖国の地。それほど恋しかったのだろう」。停留者から内地の新聞を求められたり、家族に宛てた葉書の投函を頼まれることもあった。
コレラによる死者は、数百から数千人にものぼるといわれている。「船でのことは何もかもが印象に残っている。好きで戦争に参加していた人は、誰一人としていなかったはずだ」
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