第2次大戦後、国外の戦地から帰還する軍人や軍属の引き揚げ指定港となった浦賀の歴史を伝えるパネル展が、浦賀コミュニティセンターで開かれている。企画したのは市民グループの「中島三郎助と遊ぶ会」。残された記録写真などで戦争の真実を伝える試みだ。今月19日(日)まで。
当時、在外日本人生存者は660万人以上で、生死不明者も相当数いたとされている。浦賀港では、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸から帰還する56万余人を受け入れ、全国で4位、太平洋岸では最大だった。特にコレラが発生した引揚船はすべて浦賀沖に集められ、特別な場所となった。
1945年10月、第1便となった氷川丸は、南方諸島のミレイ島から2486人の陸海軍人を満載していたが入院を要する患者が続出し、出迎えた人らの涙を誘った。
翌年4月、華南方面からの引揚船内でコレラが蔓延。国内への感染を水際で防ぐため、検疫が終わるまでは上陸の許可が出ず、多くの船が海上に停泊した。旧海軍対潜学校(長瀬)に設置された久里浜検疫所では、史上空前の大防疫作戦が繰り広げられた。
感染者は隔離施設に運び込まれたが、治療が追い付かず船上で命を落とした人も多数いた。コレラによる死者は数百人から数千人に上る。「『コレラ船の悲劇』など、忘れ去られようとする戦後史にスポットを当て、今日の平和を考えてみたい」と同会のメンバー。多くの来場を呼び掛けている。
写真展は午前10時から午後4時。入場自由。
「負の歴史」後世に伝える
西浦賀には「浦賀引揚記念の碑」がある。引揚船が接岸した、通称「陸軍桟橋」(西浦賀みなと緑地)に2006年、横須賀市が市制100周年の記念事業の一環として設置した。久里浜にあった旧海軍対潜学校に供養塔が建てられたが、その後久里浜少年院として使用されようになり、立ち入りが容易でなくなっていたため移築した。
船体をモチーフに、引揚船の史実が刻まれている。祖国を目前にして船内や病院で亡くなった人の慰霊とともに、悲惨な引揚体験を後世に伝える役割を担っている。
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