OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第3回 駿河台編【1】文・写真 藤野浩章
JR御茶ノ水駅を降り、明大通りを5分ほど歩くと、明治大学駿河(するが)台キャンパスが見えてくる。向かいにある日本大学病院との交差点を左に入るとすぐあるのが、東京YMCAビルだ。
文政10年6月23日、今の暦だと1827年7月16日、小栗忠順(ただまさ)はこの地で生まれた。
本書では幼少期の記述があまり無いが、東善寺・村上泰賢(たいけん)住職の著書『小栗上野介』によると、小栗家は徳川家がまだ松平を名乗っていた頃からの家臣で、特に4代目の忠政は13歳から徳川家康に仕えていたという。この時、戦(いくさ)の度に"一番槍(やり)"を入れていたために、家康から「小栗が又一番か、以後は又一(またいち)と名を変えよ」と言われ、その名誉を受け継いで「又一」を代々名乗ってきたのだという。
この「又一」の名こそ、小栗を知る第一のキーワードになるだろう。つまり、彼は"筋金入り"の徳川家の家臣なのだ。先祖代々、いわばDNAのように染み込んだバックボーンと言ってもいい。それが、12代忠順の時に徳川家最大の危機に出くわしてしまうのは、何とも運命的な巡り合わせだ。そして彼の時に「又一」には新たな意味も加えられることになる。
小栗家の知行(ちぎょう)地は上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)に点在していたようで、その中に上野国権田(ごんだ)村、現在の高崎市倉渕(くらぶち)があった。家康以来、江戸を脅かす強大な力の出現を防ぐため、北関東に細かく旗本を配置した。これが後に各地の"賊"の割拠(かっきょ)となり重要な意味を持ってくる。
さて、駿河台で生を受けた忠順の幼名は剛太郎。彼は9歳の時、運命的な出会いを果たす。2つめのキーワード、安積(あさか)艮斎(ごんさい)である。
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