明治初期に造船所が設置され、後期からは軍港が置かれるなど日本有数の軍都として発展した横須賀。第2次世界大戦では各所で特攻機の生産・訓練が行われるなど海軍の要衝として機能した。
市内の戦争史を語る上で地元から聞こえてくるのは、「横須賀には空襲がなかった」「空襲はあったが被害は軽微だった」という言説。しかし、資料を読み解くと横須賀市内での空襲は確かに存在し、一定数の死者が出ていることが分かる。
市史などによると、横須賀市は計11回(研究者により12回)の空襲に見舞われている。また、「市史研究横須賀第13号」によると1945年だけで空襲警報が69回発令されており、当時の市民は防空壕への移動、作業の停止、睡眠の妨げなど心身ともに大きな負荷を負いながら日常生活を送っていたことがうかがえる。
軍港の被害は甚大
「戦中も戦後も『横須賀は戦後米軍が基地として使用するから攻撃されない/されなかった』という噂があったが、これは全くの都市伝説」と語るのは神奈川大学元教授(近代史)の坂井久能氏。横須賀軍港をターゲットに据え、日本海軍の戦闘力を削ぐ目的で実施された同年7月18日の空襲について「米軍の記録では飛行機が500機以上来襲しており、これは横浜空襲に匹敵する数」とした上で、「それほど大規模な攻撃を局地的に行ったのだから、軍港内の被害は甚大だったはず」と分析する。「横須賀市市史資料室通信3」は、当日横須賀海軍病院で被災した看護師の手記を掲載。「ものすごい爆音と共に隣の病舎に爆弾が落下した」と回想がなされている。
流れ弾が近隣地区へ
空襲は軍港のみならず民間人に対する被害ももたらした。同日の空襲について坂井氏は「基地内戦死者とは別に民間人21人の死亡が確認されており、多くが基地攻撃時の誤爆・流れ弾によるもの」としている。
別日の空襲でも同様の被害が記録されている。同誌第15号は、当時国民学校教員で山中町在住の女性へのインタビューを収録。44年11月24日、自宅近所で爆弾がさく裂し、屋根で作業をしていた弟(当時19)が破片を腹に受け死亡。爆弾の破片は床柱にも刺さり、取材当時の2015年もそのまま残っていたとされている。
「記録残す重要性」
豊富な米軍の資料に比べ、被害を受けた日本の資料は警察関係を除きほとんど残っていない。横須賀の空襲が「軽微だった」とあまり多く語られずにいる理由について、坂井氏は横浜や川崎に比べ死者数が少ない点のほか被害の状況が不透明である点も挙げている。また他地域に比べ、民間による研究や慰霊活動も不活発なため、地域での歴史の共有が進まなかった可能性も論じている。
来年は戦後80年。当時を知る人がめっきり減る中、「記録を残す重要性が改めて認識されている」と坂井氏は語った。
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