OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第26回 江戸編【4】文・写真 藤野浩章
薩摩の島津久光が軍勢を率いて江戸に上り、幕府に改革を迫ったことも異例中の異例なら、その帰り道、東海道の鶴見で彼の大名行列に出くわしたイギリス人を斬る事態まで発生。これらの事件は、単に幕府と薩摩の関係にとどまらず、この後の歴史を大きく変えることになる。
イギリス人の登場は不意の出来事とはいえ、実はこの時、久光の示唆(しさ)があったという説もある。
そもそも、薩摩などのいわゆる「雄藩(ゆうはん)」が幕府にここまで揺さぶりをかけているのは、家康以来ずっと続いている徳川家による貿易独占への不満が大きかったのだという。そう、「攘夷(じょうい)」どころか、堂々と貿易ができればとりあえずは良かったのである。
それだけ、貿易による利益が大きいことを彼らは十分に知っていた。事実、薩摩は琉球との密貿易で莫大な利益を上げていたのはもはや公然の事実だったのだ。
しかし、そんな薩摩の意図をはるかに超えて、今度は朝廷に火がついてしまった。外国とのすべての条約を破棄せよ、との命令(勅旨(ちょくし))が下されたのだ。京は、あっという間に「攘夷」の嵐がさらに加速することになってしまったのである。
これらの事態を受けて、生麦事件によって巨額な賠償金を要求してきたイギリスへの対処をどうすればいいか、幕府の議論は紛糾していた。本書では軍艦奉行並に抜擢されていた勝海舟と小栗の応酬を描いているが、この時、下手をすれば外国との戦争で幕府はもちろん朝廷もろとも崩壊しかねない危機に直面していたのだ。
そんな中、薩摩をイギリス艦隊が攻撃する事態が発生する。
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