三浦の散歩道 〈第25回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
平安時代の康平年間(1058〜65年)に、三浦大介の曽祖父である三浦為継が、三崎の海南神社に神領田として寄進したことで、「宮田」の地名ができたと言われています。その東側日の出る側を「上宮田」と称し、日の入る西側を「下宮田」としたようですが、いつのことかわかりません。ただ、室町時代の永禄10年(1568年)の文書に「上宮田」の名があると、「新編相模風土記稿」にあります。
その「上宮田」は、「南下浦町」に属しています。南下浦町は北の上宮田から南の毘沙門までの所で、浜田勘太氏の著「南下浦の歴史探訪記」によりますと、120の小字(こあざ)があるのです。かつての村落でも、上宮田村、菊名村、金田村、松輪村、毘沙門村の5つに分けられます。
江戸期の上宮田村は家数263戸、小名としては「真浄寺原」、「岩井口」、「松原」、「名作(なさく)」、「木ノ間」、「今井」、「池代(いけしろ)」、「鹿穴(ししあな)」、「山ヶ谷」、「道場」等が「新編相模風土記稿」に記載されていますが、「南下浦の歴史探訪記」によりますと、上宮田は39の小字(こあざ)名があります。面白いのは、横須賀市の津久井と接している所に「犬はしり」という地名があります。昔境界を決めるのに、話し合いが頓挫したため、犬を走らせ、その通った所を境にしたのだというのです。「諏訪の上」という小名は社寺林として立派な所で、海岸の国道沿いの上宮田児童会館の前の信号を北に向かって進み、西崎酒店脇の旧道の信号をさらに進むと石造りの鳥居が見えます。かつて、村社であった「諏訪神社」です。鳥居は明神造りですが、「文政11年(1826年)戌子(つちのえね)歳6月吉日惣氏子若者中」の銘が刻まれています。石段を上がっていくと、左右に3基の石灯籠がいずれも対になっていますが、ひとつだけ、欠損して竿だけが残ったものが左側にあります。その銘を見ますと、「嘉永5(1852年)壬子(みずのえね)11月吉日、彦根家中、大堀重弥吉道」とかすかに読めます。彦根藩が大芝原に海防陣屋を設けたのは、弘化4年(1847年)から嘉永6年(1853年)のことです。この小さな竿だけになっている灯籠に海防陣屋に彦根藩が来ていた証明にもなっているのです。
社殿の手前、右側に大きな大樹があります。「なんにゃもんじゃのき」とあり、ポルトガルより渡来したので「ポルトノキ」と称するもので、日本名を「もがし」と呼ぶのだそうです。樹周4・5m、樹高15mの木で、三浦半島巨木50選樹とされています。
その木の横に、大きな「顕彰碑」があります。文字が刻まれています。内容は昭和6年から昭和10年にかけて堂ヶ谷戸の谷あいに「上宮田水深地区水田の耕地整理事業」を行い、「水深の堰」とか「ずいこの池」と呼ばれる用水池を造ったが、昭和53年になくなったので、そのことを記念にすべく、「上宮堂ヶ谷戸水利組合」の名の元に昭和53年7月、氏子会が建てたものです。
「水深」とは、現在の京急三浦海岸駅の近くで、かつての田んぼの面影は全くなくなって住宅街となっています。
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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