三浦の散歩道 〈第34回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
金田に至る旧道沿いに、名号塔と共に案内板のある所を右折して進みますと、左側に葬祭場の「いちょう会堂」が在り、さらに進むと大きな槇の木と公孫樹が植えられています。正面に本堂が見えます。公孫樹の下に「まかせ由緒」の立札が見えます。「まかせ」とは、鰯漁(いわしりょう)で使う網のことで、一度にたくさんの魚を獲る巻網漁法のことで、その名の由来は大きな網を曳くときに「ヨイトマカセ」の掛け声を上げるということからきているのだそうです。江戸時代、三代将軍家光の時、寛永年間(1624〜1643)に紀州和歌山から伝わったというのです。当時上方(かみがた)(大阪を中心とした)で、棉(めん)の肥料として干鰯(ほしか)の需要が増え、漁場を求めて関東へと進出してきたとのことで、浦賀では「干鰯問屋」が栄えていたと言われています。その後、当地と紀州との往来が増し、この地へ来た漁師を網になぞらえて「まかせ」と呼ぶようになったという話です。その漁師たちの墓と言われています墓石があります。その年号を見てみますと、古い順に「元文」「宝暦」「安永」「文化」とあり、2基は不明で、6基の墓があります。さらに、その一区画に、天保15年(1844年)造立の「海上殉難(じゅんなん)者之霊塔」がありまして、碑文に「海中魚鱗抜苦與楽」の文字が刻まれています。開眼者は十劫寺の18世寂誉という方の名が見えます。十劫寺は正覚山成等院と号す寺で、開基は上宮田の豪族松原新左衛門、開山は江戸の芝、西応寺の僧厳誉。浄土宗で、本尊は阿弥陀如来、市の指定文化財の笹塚不動明王像は室町時代の作木造寄木造り、玉眼嵌入(ぎょくがんかんにゅう)の座像で、像高76・3センチ、右手に宝剣、左手には羂索(けんじゃく)(民を救う5色の綱)を持つ通形の姿です。散歩道の第31回で存在については述べています。現在はありませんが、「齢神霊碑」と言う珍しい碑が墓地にあったというのです。浜田勘太著の『南下浦の歴史探訪記』によりますと、加藤泰次郎著の『南相の半島』に次のようにあると言うのです。「十劫寺境内ニ在リ、弘化4年(1847年)彦根藩陣営ヲ建ツル時、真常(誠)寺旧跡ノ古松樹ヲ伐リ基盤根ヲ穿ツ、根底二、古鉄甲ノ頭蓋骨二付着シテ枯骸ノ存立スルアリ。同藩士、横川勇次及び浦賀ノ商家臼井儀兵衛中村屋孫ハ等改葬シテ碑ヲ建ツ」とあり、海防陣屋の地に十劫寺と改称される以前の寺、「真誠寺」という天台宗の寺があったと言うのです。寺を出て、旧道を金田方面へ向かいます。しばらく行くと道は左右に別れます。左手へ向かって歩を進めると、「琴音」の海岸へ出ます。晴天の折には、房総半島がくっきりと見えます。鋸山や富山(とみさん)などの姿が印象的です。海辺は砂浜が続いています。冬の景物視として、砂浜に大根を干している様子が眺められます。白波の立つ海を背景に緑の葉をつけた大根の白さとは、きわめてよく、三浦の海の風物詩と言えるでしょう。
つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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