三浦の散歩道 〈第38回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
法昌寺について、『新編相模国風土記稿』に、次のように記しています。「菊名山と号す、曹洞宗沼間村(現逗子市)海宝院末、本尊正観音行基作、海中出現の像と云、開山機宗本山(海宝院)三世の僧なり、慶長19年(1614)卒、開基は長谷川七左衛門長綱(当時の代官)なり」と。『南下浦の歴史探訪記』(浜田勘太著)の中に、寺で所蔵している「聞名山(きくなさん)縁起」という資料があり、そこに本尊仏について「抑(そもそも)当寺本尊正観音菩薩ハ御丈(おんたけ)一尺三寸の座像の尊像なり。行基の作也(なり)て、海中より出現志給(したま)ふ霊験ふしきの尊像也。謹(つつしみ)て其(その)来由(らいゆ)を尋(たずね)奉(たてまつる)うに往古当村に羽崎ニ而(して)庄司入道常玄(じょうげん)とて観音信仰の仁有(じんあり)。(略)時しも2月中旬の頃成(なり)しに夢に朝日のさし向ふ磯部(べ)を見るに浪に乗して観音の像出現あり、幻ともなく告げたまはば吾海中の有生に結縁すること幾久し。然ルに今汝が積年の信心を感得し此所を出んとす。汝(なんじ)御堂を建て吾を安置、増々信心不怠(おこたらず)ハ現当二世の願望、成就すべしと宣(のたま)ふ。(略)常玄此霊夢の告に驚き夙(つとに)(朝早くの意)起き急ぎ船を出し朝日に向ふ磯部を手をすり尋ね奉りし所今の手摺り磯は是(これ)也。此(この)日終(つい)に尋(たずね)、求不奉(もとめたてまつらず)、翌朝又大信願をおこし尋ね奉りしにふしぎや今の正観音菩薩磯の上より尋ね得(え)奉る」とあります。その後、常玄はお堂を建てて正観音を安置し、「潮客寺」と号した、とのことです。このように、観音さまが海から上がった話は35回のところでも紹介していますが、「法昌寺」の以前に「潮客寺」であったことがわかりました。観音札所の御詠歌に「観音をいづこときくな目の前にねびの観音のほかはあるまじ」があります。歌の中の「いづこ」を「いつく」と詠んで、観音さまが「何時(いつ)来る」と解釈する場合もあるようです。このお寺では、秋の夕べに、若手の音楽家による演奏会が開催されることでも知られています。お寺の裏山の裾に、岩を浅く掘り込んだ「やぐら」があります。「やぐら」とは、鎌倉時代から室町時代にかけて、鎌倉を主としてつくられた墳墓で、埋葬されたのは武士であったと言われています。ここの「やぐら」は横長の短形で、間口は5・6メートル、左壁の奥は1・4メートル、高さは落盤で前方は不明ですが、奥壁が1・8メートル。床は地表より25センチほど高くなっています。さらに注目すべきは、壁に掘り込まれた「五輪塔」です。7基で、中央の納骨穴の右に舟形光背と共に仏像の上半分が浮き彫りされているのです。この納骨穴全部から小石に「お経」が書かれた「写経石」が790個も出たということです。
つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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