三浦の散歩道 〈第44回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
前回の終わりに述べた、「五輪塔とおぼしき石積み」は、三浦義村の墓でした。関東大震災の時、崖下に落下して破損してしまったものということです。『新編相模風土記稿』には「碑高七尺(約2・3m)許」とあります。しかし、すぐ近く、八坂神社の入口近くに、村人など多くの方の芳志によって「三浦義村公之墓」と刻まれた供養墓があります。いつ建てられたものか分かりませんが、大正10年とも、11年との説があります。供養墓の横に「三浦義村公墓碑改修協賛会」と刻された石板塔があり、福寿寺住職杉山滴水氏以下、発起人5名の他、郷土史家浜田勘太氏と協賛委員4名、施工者5名、特別協賛者1名。さらに、92名の墓碑改修協賛者芳名と寄金をよせた人、14名の方々の氏名が刻されています。この他には、義村の法名「南向院義天良村禅定門」に因(ちな)んだ「南向院」という建坪61平方メートルの草葺きのお堂があったと言われています。福寿寺の塔中(たっちゅう)であったようです。義村の供養墓の裏手には五輪塔の崩れたものや、享保17年(1732)の「六十六部供養塔」や宝暦5年(1755)の年号が入った「無縫塔」などが見受けられます。墓の前を少し進むと鳥居があり、その奥に社殿があります。「八坂神社」です。低い段を上がると両側に狛犬があり、右が「ア」で、左が「ウン」像です。裏に安政3(1856)丙辰夏五月吉日」と彫られています。山側にある手洗い鉢は「文政7年(1824)甲申6月5日建立」となっています。この日が八坂神社の祭礼の日だと言うのです。寄進者は「名主深瀬八三郎」との銘があります。神社の祭神は「素戔鳴尊」(すさのおのみこと)で、寛文12年(1672)6月創祀と伝えています。元は岩浦の山王社にあったものを、大正6年(1917)の大暴風のため壊れたので、この地に移したと言うことです。浜田勘太氏の著『南下浦の探訪記』によりますと、明治20年編の「金田村日誌」の記事の中に、「八坂神社ハ平六兵衛ノ守本尊ニテ岩浦ニ安置シタルハ即チ是ナリ」とあったということが書かれています。
次に「山王社」に興味を持ったので、参詣しようと思い、行くことにしました。岩浦のバス停横、義村墓の階段を下り、海を背に山側へと足を向けます。道は上り坂になっていきます。左側は山の崖で、右側に人家があって、少し急な坂を上って行くと、道の左崖の所に三基の庚申塔があります。「安政3年」の年号が読みとれます。その庚申塔の脇に岩盤を石段にしたような段が約10段ほど緩いカーブをしながら続いています。すると朱塗りの小さな鳥居があります。さらに石段を上がって行くと、少し広くなった所へ出ます。山王社の境内です。
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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