三浦の散歩道 〈第46回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
福寿寺の入口に「福寿寺と三浦義村公」と表題された看板表示があります。それによりますと、この福寿寺は正治2年(1200)3月に、三浦大介義明の孫三浦駿河守義村を開基として建立されたと言うのです。時は鎌倉時代、源頼朝の全盛時です。山号を「岩浦山」と号す、臨済宗鎌倉建長寺の末寺で、御本尊は聖観世音菩薩とのことです。像は行基菩薩の作と伝えられています。寺の宝として、三浦義村公の使用した鞍、鎧、脇差等が保存されているということです。因みに、義村の遺した鞍に触れると麻疹(はしか)が軽くすむという言い伝えが残っているそうです。
開基の義村の父は三浦義澄と言い、源頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間、一族を挙げてこれを援(たす)けた功を子息の義村に譲ったので、義村は右兵衛尉、左衛門尉を経て、駿河守に任ぜられています。嘉禎(かてい)4年(1238)には評定衆に加わり、武将としては北条氏を凌ぐ勢力で、「承久の乱」の戦後処理や四代将軍擁立に努めたことで京都の公家たちにも知られた人物です。三浦氏の最も隆盛の時代を築いた人物です。
江戸時代の文化9年(1812)に書かれた『三浦古尋録』(加藤山寿著)に「岩浦山福寿寺縁起」が載っています。その一部を示してみます。「寿永の春(1184)2月平相国清盛禅門ならびに一類追討のため、一谷の山路に迷った時、義村公の馬首に地蔵菩薩の尊体が現れ、絶頂まで導いたが、駿足の軍勢も躊躇(ちゅうちょ)していたところ、「早く此より騎を以て坂を下るべし」とのお告げがあって、叔父である佐原十郎義連と一緒に下って、勝利を得たと言うのです。それ故に、尊像を「勝軍地蔵」と称し奉ったと言い、いわゆる義村公勇敢福寿延命也、是を以て当寺を福寿寺と号すなり。それ勇敢は陽なり、とあって、「陽」は則ち南方に向いている。ゆえに、義村公の法名を「南向院」というのだそうです。ちなみに、福寿寺の子院が「南向院」で、本尊は地蔵菩薩です。
福寿寺の境内には、第一次南極観測隊の隊長西堀栄三郎氏と世界的な冒険家植村直巳氏、多田雄幸氏の三氏の氏名と、下に「顕彰之碑」と書かれ、左側に「夢」の文字があり、前面に石造りの「地球儀」が見られます。なお、寺の入口に供養塔や庚申塔などが10基あります。中に宝暦4年(1754)を記す庚申塔で、青面金剛が踏まえている邪鬼が女性と思われるものがありました。福寿寺のご本尊を参拝ののち、次に松輪方面へ向います。次のバス停「鋒」へ歩きます。「とがり」と読むのですが、昔は「戸雁」と表記していたようです。 つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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