三浦の散歩道 〈第47回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
バス停「鋒」(とがり)のすぐ近く、山側に10メートル程入った所の右手に「鋒神社」はあります。2段の石段を上がると、朱塗りで笠木の部分が黒くなっている明神鳥居と呼ばれる形の鳥居があります。境内は余り広くなく、まず目に入るのは「狛犬」です。右の口を開けた「ア」像の台石に「明治二十八年六月五日」の文字が、左の「ウン」像の台石には「岩野角衛門」と並んで、初三郎の名が刻まれています。手洗い鉢も同人の名であるが、「明治三十年九月二十二日」とあります。社殿の左側に石造りの祠が4基、海に向いて建てられています。ただ、社殿に近い一番右側の祠は疑灰岩で半分崩れかかっています。拝殿のすぐ右手に「力石」(ちからいし)と思われる石が2つ見られます。
正面の社殿は瓦葺きの妻入りで、正面は両方への引き戸になっており、鈴を付けた長い紐がたれています。拝殿の上方に千社札が8枚貼られています。
神社の由来は、浜田勘太氏の「南下浦の歴史探訪記」によりますと、祭神は「伊弉諾尊・伊弉冊尊(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)」で、創建年月は寛政七乙卯年(1795年)九月23日とあり、祭日は旧9月23日で氏子60名という。なお、これは明治20年の金田村の日誌の一部としています。なかに、「創建年月恐ラク八再建ナラン乎」とも記しています。また、浜田氏は同書の中で、次のようなことも述べておられる。「これは一説には弟橘姫の槍を守った人を祀ってあるともいわれている。これは、槍と鋒(とがり)と混同した俗説かもしれないが、それなりにうなずけることかもしれない」として、走水から房州に渡る時、龍神の怒りを鎮めるために、海に身を投じた姫を祀るに、この半島に吾妻神社や走水神社があることをあげておられる。
参拝をすませて、再びバスの通る県道へ戻りました。道を次のバス停「小浜」へと向かいます。停留所を過ぎ、さらに松輪方面へと進むと道はのぼり坂となり、右へとカーブします。この辺りの小名は「入」(いり)と言うのでしょうか。
バス停から50メートル程行った右側に、地蔵尊2体と小さな像1体。明治27年9月15日「庚申」とだけ書かれ、願主田村道吉の銘のある碑と「奉納西国六十六部供養塔」1基がみられます。
その石塔の反対左側のガードレールが途中切れる辺りに、脇道が海側へ出るような形でありました。それを進んで行きますと、道は大きく右へ曲がり、登り坂になっています。右手に見えた人家も見えなくなり、さらに左へと曲がり、急坂となっていきます。浜田氏の本に励まされ、さらに登って行きますと、左手に石造りの明神鳥居が立っています。石段を8段上がって参道へ向かいます。目的の「八王子社」です。
つづく。
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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