三浦の散歩道 〈第82回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
「狐塚」前の道は一車線ほどの狭い道路ですが、しっかり舗装されていて歩きやすい道です。ずっと西に向かって延びています。好奇心に駆られて歩いて行きました。やがて、キャベツ畑の広がる台地から、両側が狭ばって,林の中に入る感じになってきました。左側は「諸磯」の家々が眺められ、右側は木々を通して、「小網代」が見えています。そのまま進みますと、やがて、西海岸道路の上に架かる「名向陸橋」に至りました。その手前に「宅地開発に反対!」。「油壺の緑を守ろう」の立看板がありました。たしかに、この辺りは緑に囲まれた自然がそのまま観察ができる素晴らしい絶景の地であります。このまま自然を残しておきたいところです。陸橋の上から眺める「諸磯湾」と、そこに係留されている数々のヨットのありさまも得難いものです。やがて道も舗装がなくなってきました。さらに六〇〇メートルほど進みますと、柵(さく)があり「国有地」と書かれ「立入禁止」の看板があって、先に進めません。脇に「名向崎緑地」と書かれた石柱があります。なぜか、手前に「大学」と記された小さな石柱も見られます。湾の向こうに「東大臨海実験場」はあるのですが。筆子は再び来た道を戻り、「名向小学校」の入口まで至りました。バスの通る県道を渡って「郷戸」に至り、かつての旧道の坂を下り、「郷戸公園」を右に見て、「なもた坂」へと向かいます。『新編相模風土記稿』の「小網代村」の項に次のようにあります。「網代郷と唱ふ、古は網代村と称せしが地域海を隔て豆州(伊豆の意)網代村と相対するが故に小の字を冠すと云」とあります。さらに「なもた」については「土橋 小渠(しょうきょ)(ちいさなほりわりの意)に架す、なもふ田橋と唱(となう)、三浦道寸妾(しょう)自害せし所と云、婦人産後に渡れば殃(わざわい)あり」ともあります。「なもた」について、内海延吉氏は『三崎郷土史考』の中で「名向(なこう)」の字名(あざめい)があるので、これが転呼されて田が附いたものと思う。ここの田の中を流れる小川に土橋が架けてあった。」と述べています。さらに、この地に住む名主(なぬし)の屋号を「なもた」と称していたと言われています。「なもた坂」は(神奈川古道50選)にもなっている坂です。坂下に、「聖徳太子」と書かれた石塔が見られます。明治十四年(1881)十二月の年号と「諸職人」の文字も見えます。「聖徳太子」は諡号(しごう)で、推古天皇の摂政として活躍された方で名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみのみこ)」と呼ばれた皇子で、「十七条憲法」の制定の他にも、寺院の建立なども多く行い、「ものづくり」にも力を注いだことから、諸々の職人に信仰されるようになり、特に年末の十二月に太子を祀ることが行われていると聞いています。
(つづく)
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