三浦の散歩道 〈第84回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
小網代の古道と思われる道を西の方へと進んで行きました。
やがて、道の右側に「里墓の地」と思われる処へと行き当たりました。墓地の手前に一軒のお堂のような家屋があり、墓の中心には住職の墓と見られる「無縫塔」があり、その両側に小さな石仏が並んで祀られています。
ここが、三浦道寸の開基になる寺、「永昌寺」の子院と言われる「霊照院」なのでしょうか。
『新編相模風土記稿』に、次のようにあります。「境外にあり、本尊大日、霊照は三浦荒次郎義意室の法名にて、其(その)追福の為に建立すと云(うんぬん)」と書かれています。内海延吉氏の著『三崎郷土史考』の中に、「堂は新井館(現在はなくなっています。バス停も「新井館前」ではなく、「シーボニア入口」に改められています。)横を入って左折する道の傍にある貧農の荒屋(あばらや)か物置の様(よう)な建物である。これが荒次郎の妻の追福を祈るために建てた霊照院だと思うと、当時の簡素な建築様式が想像されこのまゝに残して置きたいと思う。」と記していますが、真実、この建物が当時のものなのかどうかは不明です。
なお、「永昌寺」は、西湖山と号す、臨済宗の寺院で、永正元年(1504)の創建です。寺号は道寸の法名からとったと言われています。天保六年(1835)に焼失して、現在の地に移ったと言われています。三浦荒次郎義意の妻は上総真里谷城主の武田信嗣の娘です。
世の中に荒次郎の妻は「小桜姫」と思っている人がいるとすれば、それはまちがいです。「小桜姫」は、明治時代に書かれた村井弦斉の小説『桜の御所』に出てくる女性で、架空の人物です。
「霊照院」内の墓域の中で目をひくものと言えば、お花が供えられている三基の無縫塔と、その前に並んでいる七基ほどの石仏です。いずれも江戸時代に造られたものです。年号の読める範囲では、寛永十四年(1637)、寛文十年(1670)、元禄五年(1692)、宝永元年(1704)、享保十二年(1727)の五体ですが、他に崩れて読めない石仏もあります。
境内の墓石は「里墓」らしく、石に刻された姓は、石井、葉山、藤崎、鈴木などの名字がみられました。さらに境内の道路に面した所には「六地蔵」も祀られており、さらに「馬頭観世音」も道の際に祀られ、花が供えられていました。
仏様を参拝した後、道は右へ曲がる道とまっすぐ下へ降りる道とがありますが、ここでは、右へと曲がる道を進みました。すぐに、バスが通る県道へと出ました。脇のバス停留所名を見ますと、「シーボニア入口」とあります。
(つづく)
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