三浦の散歩道 〈第85回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
前々回に歩いた「なもた坂」を上がって、右方(北)へと向かいました。登り坂になっています。左手の住宅を過ぎると、右側は谷戸で、畑などが見られます。やがて、道は右へと曲がり道幅もせまくなってきます。道は登りになって、「なもた坂」から約五百メートル程でしょうか。登り坂を詰(つめ)た辺りが「高山」なのでしょう。やがて、幅の広い道にぶつかります。「松輪入口」方面から「塚ノ越」を経て、「県道油壷線」に至る道です。その三叉路の左側に、「馬頭観世音」二基を含めた九基の石塔が見られます。左から「青面金剛」の文字塔で裏面に「元治元(1864)甲子(きのえね)十月吉日、小網代村佐右衛門」とあり、その隣は笠付型で「庚申供養塔」の文字と日月、三猿が描かれ、下に「講中」の名が記され、右側に「寛政元(1789)酉年、左側に「十一月吉日」との文字があります。その隣は笠付型で、正面に合掌六手の「青面金剛像と日月一鬼、三猿」があり、安永八(1779)二月吉日の年号があります。次がこの小網代港を控えた土地らしく、風の袋を持った六手の「青面金剛像、日月、一鬼、三猿」があり、「高山講中と七名の名前が見られ、側面には明治八(1875)年十二月吉日と記されています。かつて小網代は風待ち港として栄えたのです。その次は棒を持った六手の「青面金剛像と日月、一鬼三猿」があって、下に「奉造立庚申講中九人」とあり、寛延二(1749)年の年号が読みとれます。さらに次は、剣人六手の「青面金剛像と日月、一鬼、三猿」で、年号は天保十五(1844)年二月吉日」とあります。この塔には「高山里講中十三名の名前が読みとれます。いずれも笠付の塔です。最後の七つ目は板状の自然石で、正面の右に「月輪大菩薩」に、真ん中に「庚申供養塔」とあり、左側に「日光大菩薩」の文字が刻されています。裏面に明治三十四年三月の年号がみられます。
以上のように七基の「庚申塔」と二基の「馬頭観世音」石塔が祀られているのです。その石塔群に至る手前の登り道に右へと続く道があり、その道に入ると前方右手は眺望がすばらしく左前方には宮川の「風車」をはじめ、前方の彼方には「伊豆大島」も望遠できます。左側は畑になっていて、近くには家屋も見られますが、この地に「義士塚」と呼ばれる「塚」が四基あったのですが、現在では二基しか見ることが出来ません。『新編相模風土記稿』に、「外郭引橋の辺にあり、北條早雲の家士四人の墓なり、相伝ふ荒次郎義意最後の奮戦に、敵兵辟易(へきえき)して敢(あえ)て近づくものなし、特に彼(かの)四人義意目がけ討てかかる、義意ただ一刀に打ち果さんとす、道寸其(その)勇敢を憐(あわれみ)て放免せしむ、落城の後ち道寸の芳志を感じ、ここに来て自尽(じじん)す、故に此の名あり」とあります。その後、村人が四人の塚をつくって、丁重に葬ったとのことです。
(つづく)
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